過剰期待と早期教育について

多くの親は自分の子どもに対する期待を、愛情だと思っています。あるいは、子どもの将来を思いやってのことだと思っています。だから、愛情の表現だと思っているわけですね。

けれど多くの場合は、親はありのままの子どもの成長に期待するのではなく、子どもが親の思った通りになってほしいと、期待しているのではないでしょうか。勉強ができるようになってほしい、スポーツもうまくなってほしい、ピアノや絵画も身につけてほしいなど、いろいろと期待します。そして、子どもの持っている能力にかかわりなく、親はどんどん期待を大きくしていきます。

このような過剰な期待は、親自身がどう思っていても、子どもに与える心理的なものは、子どもを拒否していることになるのです。子どもに対して愛情として伝わるのではなく、自分が拒否されたと伝わるものなんです。

なぜなら、過剰期待というのは、今のままのあなたには満足していないということを、別の表現で伝えているだけなんですから。この心理的な関係は過剰期待された人でないと、なかなかわからないかもしれませんね。

たとえば、夫婦の間での過剰期待について考えてみると、よくわかるかもしれません。夫から毎日のように、こういう妻になってほしいとか、あるいは妻から、夫としてそんな状態では満足していないということを、いろいろな態度で言い続けられるとしたら、みなさんどんな気持ちになりますか。とてもつらいことではないでしょうか。

一般に、親が子どもに過剰期待をするというのは、親自身が自分のことに満足していなかったり、自分が孤立していて不安だったり、今の生活に不満があったりする場合が多いですね。そういうとき、親はなにかに生きがいを求めます。そして、一番身近な子どもを、生きがいにしてしまうことがあるわけです。自分の都合のいいように子どもに期待し、生きがいにすることによって、自分の不安から逃れようとするのです。

ですから、そういう親は過剰期待によって、子どもがどういう気持ちでいるかということにも気づかないものですね。現代は、親の過剰期待にさらされている子どもが、非常に多いですね。私たち臨床医が出会う、情緒障害といわれる子どもたちは、生まれつきの情緒障害でない場合がほとんどです。情緒障害といわれる子どもたちの多くは、親の過剰期待によるものだといってもいいかもしれません。

たとえば、自分の毛を引きぬいてしまうという子どもたちに、小さい子どもばかりでなく中学生や高校生にも、私は臨床の場で何人も出会ってきました。頭髪のほとんどすべて、つるつるになるまで引きぬいてしまった少女もいました。彼ら、彼女らは、たいてい親の過剰な期待に苦しんでいました。ですから、過剰期待がなぜいけないのか、子どもにとって最悪なのかということを、みなさんにも考えていただきたいと思うのです。

私はときどき、保育園や幼稚園、それから、学校もありますけれど、父母会やPTAの会などに招かれてお話をすることがあります。そういうときに、私はお母さんやお父さんに「自分の子どもが、どう育ってほしいですか」と、よく聞くことがあります。

そうしますと、親の望みには個人差がありますが、ほどほどに、あるいは、うんと勉強ができる子になってほしい、これは親の共通した望みのようです。しかし、子どもが勉強ができるようになれば、もうこれでいいと思う親も少ないですね。勉強ができるだけでなく、活動的なスポーツマンにもなってほしい、さらに情操教育として書道やお茶やお花、ピアノやバイオリンとか、あるいは絵がうまくかけるようになってほしいと、多くの親は思っているのです。

自分の子どもが学校の秀才でサッカー少年で、そのうえバイオリンが弾けたりしたらどんなにいいでしょうね。これはすばらしいと多くの親が思いますし、私だって自分の子どもに、そうなってもらいたいと思いますよ。親としてこういう希望を持つのは自然なことです。それに勉強やスポーツ、お稽古事を教えてくれるところは、いくらでもあります。学習塾、スポーツクラブ、音楽教室、絵画教室など、ありすぎるぐらいありますよね。そういうところへ子どもを通わせれば、子どもはその子の能力なりに伸びていきます。

ですから、子どもにいろいろなものを与えるだけの早期教育とか、幼児教育だったら、子どもにとっても、すこしも悪いことではないと思っています。成果があがってもあがらなくても、親がそのことを気にしないで早期教育をするのであれば、それはいいのではないでしょうか。けれど多くの場合は、親は子どもの成果を期待しているわけです。

そうしますと、それは親の自己愛を満たすための、親の満足のための過剰期待となってしまいます。とくに近年、そういう早期教育が多くなっていますね。幼稚園などでも、英語などの幼児教育を取れ入れているところも、多くなっていますけれど、私は早く教育したからといって、成功するかしないかは偶然性のように思いますね。もっといいますと、百分の九九は成功していないのではないでしょうか。ですから、早期教育を考える場合は、やらないより、やったほうがいいという程度に、考えたほうがいいと、私は思っているのです。幼児期の子どもにとって大切なことは、そういうことではないと思います。

子どもの発達にとって必要なことは、まず乳児期には、自分の望んだことが十分に満たしてもらえること。つぎには、親やまわりの人に「こうするんですよ」といわれたことを、習い始めるとき(親の側からみるとしつけの時期ですが)、いつからできるようになるかは、自分まかせにしてもらっていること。さらに、幼児期後半の最後の仕上げは、自分のやりたいことをおもいきりできることだと思うのです。

これらは、子どもの依存欲求を充足することでもありますし、こういうことを満たされて育ってきた子どもが、一番順調に成長していることになると思うのです。そして、成長のそれぞれの時期に、精神保健がいい状態で育っている子どもというのは、生き生きとして輝いていますよ。早期教育を考える場合、こういうことを、親は知っていなければいけないと思いますね。

つまり、幼児教育によって知能がどんなに高くなったとしても、幼児は幼児なんです。そして知能と肉体と、それから社会性というものは、それぞれ別に発達していくものなんです。ですから、早期教育の結果、子どもの知能が高くなったとしても、情緒性、あるいは社会性は、まだ未熟ということがよくあります。そういう子どもの知能と情緒性や社会性の落差が、大きければ大きいほど、その子どもの人格は支離滅裂になってしまいます。

いろいろな面の発達がそろって早いか、そろって遅いかということであれば、大きな問題はないのですが、それがアンバランスになったときが非常に問題なんです。ですから、知能の発達が非常にいい子がいたら、一方では、おもいきり情緒的に、いい意味での甘えとか過保護を許しながら、人間関係をすこしでも豊かにしていく、あるいは、他の人に対する信頼感を育てていかなければならないのです。

アメリカでも以前は、英才児たちは一年か二年、飛び級をするケースが多くありました。知能が進んでいても情緒が追いついていない状態で、飛び級をするわけですから、年長者のクラスのなかでは友達をつくることができませんし、その子が精神的な背伸びを強いられストレスになったりします。そして、思春期をすぎたころには、クラスの友達との間に精神的なギャップができたり、結局、神経症になったり、落ちこぼれたりして、そのストレスが暴力という形ででてくるという問題があり、今では、アメリカでは飛び級はすっかり影をひそめてしまったそうです。

日本でも高校二年生で、大学に入学させるということをやっていましたが、どうして、そんなに急ぐ必要があるのでしょうか。私はいろいろな面でのバランスがとれているほうが、子どもの成長過程で本当は一番健全なのではないかと思っているのです。親や大人からみると、平凡すぎてつまらなくみえたりするかもしれませんが、本当はそれが一番いいと思います。知識や技術を子どもにどんなに十分に与えたって、それは人格の完成にはつながらないということも、わかっていただきたいと思います。どんなに事業に成功しても、スポーツで成功しても、それは人格を育てることと別のことなのです。事業が成功したから人格者であるとか、バイオリンが上手になれば人格者になるとか、そんなことないというのは、わかっていただけると思います。そういうことに、親も気がついてもらいたいですね。

新宿歌舞伎町にたむろするトー横キッズといわれる女子中学生と相談で面談をしました。彼女は母親による過剰な期待と早期教育で自分自身を保てなくなった子どもでした。またあるとき小学生の子どもが暴力的になり「子どもが壊れました」と言って母子で相談に来られた子も早期教育を受けてきた子でした。この子は不登校と摂食障害に苦しむことになりました。

大きな期待を受け中学受験で難関な学校に入学したものも、その後挫折して無気力になった子、不登校やひきこもりとなった子などの相談を何名も受けています。

「過剰期待は親の愛情としては伝わりません」は佐々木先生の大きな警告です。私は日々の相談の中で実感する言葉です。

親の望みと子どもの望みがぶつかったとき、親の望みを控え、子どもの望みを優先する。それが親の役割だと思います。
どうか子どもの声に耳を傾けて下さるようお願いしたいと思います。

佐々木正美