子育ての心理学6 幼児期前半2

佐々木正美

●排泄物への愛着

 乳児期を過ぎて幼児期に入ると、子どもは躾を通して、衝動をコントロールすることを学ぶことになります。すなわち、自律性の習得です。自分の欲求や願望を、白分の力で修正、変更、抑制する能力を身につけることです。

 その具体的な例が、トイレットの自立と呼ばれる自律機能の習得です。家族や周囲の人たちの、いわば社会的要請にしたがって、大小便の排泄を自分の意志でコントロールする能力を身につけることです。

 普通、トイレット・トレーニングは、二歳前後から開始されますが、この時期の子どもは、自分の排泄物を汚くていやな物だとは感じていません。そればかりか、自分の身体の一部のように思っていて、むしろ愛着さえ感じているのです。

 ですから、トイレットが自立する前の子どもは、自分の大小便をいじって遊びます。しかし大抵は、親や保育者が気づかっていて、子どもが自分のオシッコでつくった床上の水たまりで遊ぼうとする前に、きれいに片づけてしまうのです。あるいは、パンツの脇からぼろっと落ちたウンチを、子どもが気づいて拾い上げようとする前に、周囲のおとなが始末をしてしまうのです。

 そのために、この頃の子どもが、自分の排泄物をいじって遊ぶようすを目にすることは、めったにありませんが、乳児院や保育園などでは、あるいは家庭でも、養育者がちょっと目を離したすきに、子どもが床上の自分でしたオシッコの水たまりのそばにどっかり座りこんで、水遊びをしているのを見かけて慌てるということは、うっかりするとあるものなのです。

 このように、この頃の子どもは、自分の排泄物を不快な物とは思わず、「使い古した玩具」に対するような愛着を感じているくらいなのです。そのために、トイレット・トレーニングを始めたばかりの子どもが、最初から養育者の期待に応えて、積極的に便器に向かってオシッコやウンチをするというようなことは、決してないのです。

●人生最初の決断

 ところが一方で、二歳前後になった子どもは、排泄の直後に、さっぱりとした快感をはっきり感じることができるように、知覚機能が発達してきます。ですから子どもは、排泄の躾をうけ始めると、まず、古い玩具でも捨てるのはいやだという愛着の感情にもとづいた、排泄への拒否感が頭をもたげます。

 しかしまた他方では、オシッコやウンチをした後の快感も知ることになって、相反する二つの感情のなかで葛藤することになります。ある精神分析の専門家は、この時期の子どものこういう状態について、「人生最初の決断」をせまられている時だと解説しています。

 このように、両面価値のあることを自分の意志で決断することが「自律」なのです。あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てるとあちらが立たないという事態を、自分の意志や判断で解決していく力が自律性です。

 ですから、自律性が育てられないと、子どもは両価性のある問題を、自分で判断し決断して解決していくことができませんから、いつもだれかに決定や解決をたよるような生きかたしかできないことになります。おとなになった時に、困難な問題の選択や決定を自分ですることができないで、ずるずると成り行きまかせの状態でいたり、時間が解決してくれるような生きかたしかできなくなるかもしれません。

●心と手をかけて待つ

 それでは、どのようにすると、子どもの心のなかに、衝動をコントロールしたり、両面価値のある二者択一的な問題を解決できるような、豊かな自律性の芽を、しっかりと育てることができるのでしょうか。

 それはひと口で言うと、大切なことはすべて、くり返し伝えたり教えたりするだけで、その結果、子どもが教えられ躾られたことを、いつから実行するようになるかは、子どもにまかせてやって、じっと待っていてやるということでしょう。

 排泄の躾で言えば、便器の中にオシッコやウンチをするのがよいことだと伝えて、時間を見計らっては便器に座らせてやる–それだけで十分なのです。長い時間、便器に座らせるというようなことは決してしないで、いつになったら上手にできるようになるかは、子どもまかせにしてやる気持ちが大切です。子どもにまかせてやるから、子どもに自律性が育つのです。
 ですから、自律性を育てるという意味で、最悪の躾方は、大小便がでるまで便器に座っていなさいという育児法です。なぜかと言うと、これは子どもの意志を他の人がコントロールしているのですから、他律的な育児法になってしまい、子どもの心から自律的なはたらきを奪ってしまうことになるのです。

 トイレットの問題に限らず、すべての躾は、子どもの心に自律心を育てるために重要な育児課題です。その要点は、必要なことは穏やかにくり返し教えて、その成果はゆっくり待っていてやるということでしょう。子どもに限らず、草花や農作物でも、何でも同じことでしょうが、育てるということは、十分に心や手をかけてやることと成果は待つことに、喜びを感じていられるようになることでしょう。