佐々木正美「ママの匂いを覚えていますか?」
ある大学の講師をしていらっしゃる方が博士課程、博士号を取るために、私の大学に大学院生として入学して来られました。何故私の大学を選んだのかというと、中国からおいでになっている大変優れた学者、研究者が何人かいらっしゃいます。その先生たちはバイリンガルで中国語と日本語が同じようにお出来になる。若い頃、日本の大学に留学していらっしゃったこともある。よく知られておりますし、そういう先生にもご指導を仰ぎたいということもあったのでしょう。中国の大学生と日本の大学生の心、気持ち、心理の比較研究をされたのです。
私も児童臨床、児童青年精神医学の臨床家としてお手伝いしました。お手伝いをしてたくさんのことを改めて教えられました。研究ですからまだわからないことを調べていくわけです。時間の関係で結論の一部だけ、皆さんのご参考になると思われるところを申し上げようと思います。
日中大学生の比較
日本と中国の大学生に向かってたくさんのことを質問します。いきなり最初の一問目から「あなたは赤ちゃんの頃、あるいは幼かった頃に覚えたお母さんの匂いの記憶がありますか」とありました。びっくりするような設問です。
「どうしてこういう設問を考えられました?」とお尋ねしました。その方はシュタイナー教育の専門家で「シュタイナーのところから教育の研究をずっと見つめていくと、こういうところに辿り着く」とおっしゃいました。
中国の大学生と日本の大学生、どんな答えがどれくらい返ってくるか。
「お母さんの匂いをよく覚えていますか」
「お母さんの声をよく覚えていますか」
「幼かった頃にお母さんのすぐ隣で寝た記憶がありますか」。添い寝ですよね。
ある、はっきりある、あるような気がする、どちらとも言えない、ないと思う、絶対にないとか。こういう答えが用意してあってそこへ○をつけていく。
そして「そのお母さんの匂いはどんな匂いでしたか」と。いい匂いだった、いい匂いだったように覚えているとかあるのです。びっくりしますよ。その匂いがどうであったか。匂いをよく覚えていた。記憶が残っている。はっきり覚えている。本当に覚えているのかどうか、後で私たちは議論することになります。
生理的なちゃんとした匂いの記憶なのか、心理的な記憶なのか、こういう区別はできません。学生もそういう区別をして答えているようには思えません。心理的な記憶というのがありますよね。あの町は素晴らしかったとか。あの風景は素晴らしかったとか。匂いまで覚えているような気がするというような人がいた時に、本当の匂いかどうかというのはなかなか難しい。しかしそれも含めて、赤ちゃんの頃、幼かった頃に覚えた体験の記憶がちゃんとそのまま、あるいはいろんな形で屈折しても、今あなたには甦ってきますか?ということなのです。
その後たくさんのことを聞きながら、最後の最後に、「今現在のあなたの気持ちをお尋ねしたいです」と。まず「あなたは自分のことを自尊心がしっかりしている人間だと思いますか?」こう尋ねます。自尊心は非常にしっかりしている、かなりしっかりしている、どちらとも言えない、自尊心はあまりない、自尊心はまったくない。このようにあらゆるものに対して5段階くらいの回答が用意されています。
「自己肯定感がありますか」
「意欲的な人間だと思いますか」
「感動的な人間だと思いますか」
「将来への夢や希望がありますか」。
なにもかも5段階でたくさんのことを聞きます。そして本当に驚きました。お母さんの記憶がしっかりある、あるいはある程度あると答えた学生ほど、自尊心も自己肯定感も将来への夢や希望も何もかも大きいのです。もうびっくりしました。日本の大学生でも中国の大学生でも全く同じでした。
ああ、人間というものはこういうパターンになるんだ。お母さんってすごいなあともうしみじみ思いました。お母さんへの記憶が良い記憶であればあるほど、現在の自分自身は自尊心も自己肯定感も夢や希望や意欲も感動もみんな大きいと思う方に傾いて答えているのです。
何も中国人だから日本人だからということではない。もしアメリカの大学生に同じような調査をしてもたぶん同じだったろうと思います。調査の集計だけは終わり、本格的な考察をしているところです。
だけど、ひとつ悲しかったです。日本の大学生にはお母さんへの記憶、現在の自分の肯定感情、将来への夢や希望、こういうつながりを持った学生が非常に少なかった。
皆さん、今のうちにお母さんの匂いを刷り込んでおいてあげてください(笑)。お母さんの声はいい声だったと。なにも声楽家のような声でしゃべる必要はないですよ。お母さんの声は今も耳の中に残っているというようなことが、この子が将来大学生になるような年になった時までずっと影響していくのです。本当にすごい研究です。
いいですね、お母さんって。
この結果は注目に値するものだと思います。とても大きな意味を持った調査だと感じました。いま日本の大学生はいっしょうけんめい就職活動をして、やっと就職してもじきに辞めてしまう人が多いようです。自尊心が持てない、組織内でうまくやっていけない、プレッシャーが大きい、などさまざまな理由はあると思います。終身雇用制がくずれ、不況による新卒採用の枠が減るなどして、いまの大学生はとても大変だとは思います。けれど、会社をじきに辞めてしまう若者の多くが、辞めた理由として社内の人間関係をあげています。人間関係がうまくいかずに、結果的に夢や希望、自己肯定感を感じられずに自尊心をも失ってしまう。こうした現実を見るにつけ、なにか、乳幼児期の育てられ方と、大人になってからの自尊心、将来への夢や、自己肯定感、健全な人間関係はやはり大きなつながりがあると思わずにはいられないのです。
現代の若者が抱える問題をすべて「親の育て方」のせいにするつもりはまったくありません。
母親がいない家庭もあれば、父親がいない家庭もめずらしくないし、両親の都合で祖父母の家で育つ人もいます。両親そろっていつも子どものそばにいられなかったとしても、なにひとつ問題なく育つ子どもはたくさんいます。しかし、こうした調査結果を見て、現代の青少年、青年たちを見ていると、やはり私はお母さん、お父さんに「できるだけ、子どもに手をかけてあげなさい」「いくらでも子どもが喜ぶことをしてあげなさい」「関わりすぎていけないことはなにもないですよ」と申し上げたいのです。
※佐々木正美先生が大学教授をなさっておられた頃のお話しです