佐々木正美
● 人と自分を信じることから
エリクソンがライフサイクル論で指摘した、人生の各段階における発達や成熟に関する考え方を参考にしながら、多くの人が関心をもっておられる、乳幼児の健康な育てかたや過ごしかたを考えてきました。今回は就学前までのまとめをしておこうと思います。
十数年前のある時、私は神奈川県の教育委員会に招かれて、学校不適応の生徒の問題を話し合う協議会に出席しました。その席上、この問題の知識や経験が豊富で、長年実際の生徒を支援してこられたある高名な専門家の話を聞くことができました。多くの示唆が与えられたなかで、次の発言が私には最も印象深く実感として残っています。
それは、不登校の生徒の気持ちを支配する最も中核的な問題は、周囲の人に対する不信感と自分自身への特有の不信感、すなわち自信のなさであるというのです。その話を聞きながら、私はエリクソンが説く「基本的信頼」のことを考えていました。
人を信頼することと自分を信頼すること、すなわち自分の価値を知ることは、乳児期に最も感受性が豊かに育てられるということです。不登校を示す子どもが乳児期にどのような育児環境にあったかなどと、問題を軽々に短絡的に不確実な後方視的態度で扱うべきではありませんが、現在、小さな子どもを育児中の人は、バックナンバーを再読していただいて、前方視的な子育てを試みられるのもよいと思います。
● 優越感でなく自信を
子どもが自分に本当の自信をもって生きていけるように育てることは、育児の最も基本的な要件です。しかし、何かを他の子どもたちよりもよくできるように教育して、自信をもてる子どもに育ててやろうとするだけの育児は、大変危険なことだと思います。
なぜなら、何かがよくできるだけの自信は、そのことがもっとよくできる人の前に出ると、それだけで自信喪失や劣等感に変わってしまうからです。そして、さらに好ましくないことは、自分の方がよくできると思えるような人たちの中では、優越感ともいうべき非人間的な感情が大きく頭をもたげるからです。優越感や劣等感は、種々の程度にだれにでもある意識や感情ですが、こういう気持ちはできるだけ大きくないほうがよいと思います。
そのためには、子どもの心の奥底に本当の自信を育ててやることが必要です。何かがちょっとばかり仲間よりよくできたからといって自信をもったり、反対に、みんなよりできが悪かったからといって劣等感に苦しんだりするのではなくて、もっと心の深いところで、自分の価値を信じることができるような子どもに育ててやりたいものです。
そのためには、できるだけ早期の幼少期に、子どもが望んでいるような愛情のかけかたをしてやることが必要です。養育をするおとなの都合で支配的な育児をすることではありません。親が望む愛情のかけかたと、子どもが要求している親の愛情には、しばしばくい違いがあります。そのくい違いを、できるだけ小さくすることが、乳児期や早期幼児期の育児には大切だと思います。
● 依存と反抗、そして自立
やがて子どもたちは、周囲の人々に対する基本的信頼感と自分の価値への自身をもとに、自律性、自発性、積極性といった心理社会的な人格の形成に不可欠の要素を発達させていきます。
このような人間的要素を発達させるために幼児期の中・後期にある子どもは、さまざまな自己主張や反抗的な態度を見せます。ですから、この時期の子どもは、依存と反抗をくり返しながら自立への歩みをたどります。
このあたりの事情も、前回に書きましたが、依存的な行動はしばしば甘えの態度で示されます。自分に対する親や養育者の愛情の確認、すなわち自分の価値の確認です。そして反抗的な態度は、甘えの要素もありますが、自信を得た証拠ともいえる行動です。
ですから、思春期になって突然、拒食症や家庭内暴力など危機的状態に陥る若者が、幼児期から小学生の時代に、反抗期など全くない聞き分けのよい子どもであったと回顧されることも多いのです。
● 友だちを信じる
幼児期後半の子どもは、人を信じ自分を信じて、安心できる周囲の人や環境を自発的に操作しながら、より積極的に生きていくための力としての知識や技能を獲得していきます。この時期を象徴する探索行動とは、そういう意味をもった活動のことです。やがて、子どもたちは小学校に入学します。はじめての本格的な社会的活動や生活を始めるのです。
エリクソンが説く小学生時代の発達課題は、社会人として生きていくための「勤勉性」です。しかし、勤勉性が身につくために不可欠の活動様式は、「友だちから学ぶ」ことと「友だちに教える」ことであって、先生やその他のおとなから学ぶということでは、必ずしもないのです。子どもが、健全な社会人になるための勤勉性を習得するためには、多くの友だちとの間で、教え合い学び合わなければならないのです。そのためには、友だちを信じることができるように育てられていなければならないのです。