子どもはなぜ遊ばなければならないのか

佐々木正美「子どもはなぜ遊ばなければならないのか」

社会性を育てることの大切さ

子どもを育てることは、年齢にふさわしい社会化を達成させてやることだとも言いかえることができます。友達や地域社会の人々と共感的なコミュニケーションがうまくできないで、健全な社会性を身につけることが順調にいかない子ども達が見せる不幸な現象は、いじめっ子、不登校、家庭内暴力、しらけ、モラトリアム、オートバイの暴走など今日様々な形で表現されているのです。

友達の中で自発性や自主性が育つ

子どもは4、5歳になると、特に親しい「仲良し」の友達をほしがり始めます。それまでの母親やそのほかの家族ばかりとの世界とは違った、仲間との新しい世界の中で、新鮮な好奇心を満足させるものや、新たな感動を体験するのです。

この頃の子ども達は運動筋(随意筋)の発達によって、走り回ったりすることが自由になります。疲れを知らず、あり余るようなエネルギーを駆使して活発に活動します。少しぐらいのけがや迷い子のような失敗や不安の経験は、旺盛な好奇心や探求心のために、すぐに忘れ去られてしまいます。

しかしこのような体験は、仲間や友達がいなくては味わうことができません。ひとりぼっちでは、ちょっとしたつまずきや不安に遭遇しただけで、すぐに退却してしまい、もう二度とそういう場面に出向いていくことをやめてしまいがちになります。

ところが親しい友達と一緒ですと、多少の失敗などはすぐに忘れて、興味深そうに思えることにはひるまないで向かっていきます。自分ひとりでは決して行くことのできない距離まで遠出して、新しい公園や広場で遊んできたり、年上の子どもに導かれて川や沼でオタマジャクシやザリガニを捕ってきたりします。自分の手に負えるのかどうか分からない不確実なことや危険そうなことを、自分や自分達の判断で計画して取り組むようなことは、親しい信頼のおける友達と一緒だから実行できるのです。

子ども達がまだ行ったことのなかった空き地を見つけて遊ぶことや、初めて小沼でオタマジャクシを捕ってくるような体験は、登山家がどこかの困難な山の登頂に成功したり、科学者が何か新しい発見をするのと同質のものです。子どもの自主性や自発性は、そして探求心や創造性などの意欲的な活動の源泉は、このようにして育つ要素が大きいのですから、友達なしには育ち得ないことになります。このようにして仲間とコミュニケーションしながら発達してくる自発性や自主性が、社会性そのものなのですから、友達との遊びの体験を十分することなしには、社会人としての資質が磨かれないことになります。

遊びの中で友達を理解し、自分を知る

子どもはまた、自分自身を知るために、友達が必要です。子ども達は遊びの中で遊び相手と自分が、時々意見や考え方が違うことに気づきます。その結果、ある時は自分の意見を押し通し、またある時は友達の立場や主張を認めて優先させるなど相手の能力や性格を見つめながら、自分の取るべき態度や役割を作り上げていきます。

このようにして子ども達は、相手を理解することと自分自身への認識を深めることを、同時並行的にやっていくのです。あるいは視点を変えれば、他人の理解と自己の認識は同義的なことと言えます。ですから、友達への共感や理解が深まれば深まるほど、自分のことをよく見つめることのできる子になっていくことになるのです。

このように考えてきますと、友達のいない孤独な子どもが自分を見つめる力が弱く、些細なことで自分を見失い衝動的な行動を取りやすくなっていることが、よく理解できます。

思春期になって家庭や学校で暴力をふるう子ども、自殺を志向する子ども、万引きをする子ども、オートバイで暴走する子ども、シンナーなどの薬物乱用に陥る子ども達は、それぞれいろんな性格や資質を持っていますが、本質的にはみんな孤独なのです。

子どもの精神発達の最終的な成熟現象は地域での社会化と言われますが、その社会的成熟は相手に共感し、相手の立場を尊重し、仲間や友達と意見や行動をともにする体験を積み重ねることで達成されるのです。個人の社会的人格の形成基盤となる自我の形成と拡大は、このようにして達成されるのです。そのために幼児に必要なことは、友達との豊富な遊びの体験です。

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このままでは人間関係の練習が不足する

ところが現代の私達の社会構造は、子どもが友達遊びをすることを困難にしています。そのことに無頓着なまま子どもを育てていますと、後で大きな悔いを残すことになりがちです。そこで現代の家庭や社会の仕組みについて少し考えてみることにします。

まず現代の家庭では子どもが少ない傾向にあります。ひとりっ子かふたりっ子の場合が多いと言われています。兄弟や姉妹が少ないということは、それだけ人間関係の練習が不足しがちになるということです。家庭の中で子どもが自分だけか、ほかに一人しかいないような場合には、家庭内の人間関係が一つの決まりきったパターンになりがちです。同胞が多いと、それだけで種々複雑でダイナミックな人間関係ができあがりますし、自分の友達以外にもきょうだいの友達や仲間も大勢出入りするので、いろんな子どもとの接触やコミュニケーションの機会が得られます。しかしひとりっ子やふたりっ子では、同胞関係が少ない上に、親子の決まったパターンの人間関係に終始してしまいがちになるのです。

それにも関わらず現代の私達の家庭は、子どもが自分の家の中だけに閉じこもっていても、退屈しない仕組みができあがってしまっています。まずテレビではたくさんのチャンネルが楽しい番組を競って放映してくれますし、大抵の家庭では玩具が十分あります。その上、おやつも食べきれないくらいあるのですから、子ども達はそれぞれの家庭の中にいるだけでもあまり退屈や欲求不満を感じないですむのです。

子ども達それぞれが多かれ少なかれこういう状態でいるのですから、あまり戸外で遊ぼうとしません。また表に出て遊ぼうとしても、なかなか良い空き地や広場がありません。都会ではちょっとした路地のような所にまで自動車が入ってきますし、空き地があれば大抵は有料駐車場か何かに経済的利用をされていて、子ども達は立ち入ることはできません。その上、多くの子ども達は幼児期から、ピアノやバレエやスイミングなどのけいこ事やスポーツの訓練に通ったりしていますから、遊び合う時間がなかなか取れなくなっているのです。

親自身も友達を必要としている

子ども達が子ども同士でうまく遊べなくなっている現状の背景には、親も近所の人達とコミュニケーションすることが下手になっているという事実があります。

その理由にはいろいろなことがあるのでしょうが、各家庭が経済的に自立したということもあります。すなわち、隣近所同士があまり頼り合い支え合う関係ではなくなったのです。言葉をかえれば、互いに感謝したりされたりする関係ではなくなっているのです。「人間」という文字から連想される人間性をみんなが失いつつある時代に、私達は子ども達を人間性豊かな人間にしようと躍起になっているとも言えます。

都市の周辺に都市化の波が押し寄せ、新興住宅地に日本の各地から、それまでの生い立ちや生活習慣や思想信条を異にする人々が一度にドッと移り住んで、それぞれが自立という名の孤立的な生活を営んでいるという流れや現状に、私達は子育てばかりか親自身の人間性の回復のためにも、どう対処しなければならないかを、真剣に考えてみなければならないと思います。

友達がほしいのは子ども達ばかりではありません。私達親自身も、自らのよりよい精神衛生のために親しく共感し合える近隣の人達を必要としているのです。

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水泳、ピアノ、塾……いくらやっても社会性は身につかない

子どもが友達をほしがる必然性について、アメリカの精神分析家で子どもの心理社会的発達論で有名なエリクソンは、小学生時代の子どもについて、学問に直接関係のない将来の職業に関係して、教師になった大人から多くのことを学ぶことは事実であるが、それ以上に多くのことを、おそらくもっとも多くのことを年上の子ども達から学ぶであろうと指摘しています。小学生時代の子どもは、将来社会人ないし職業人になるために必要なことのうちもっとも多くのものを子ども達から学ぶというのです。

今日私達は、そのことの重要さを忘れてはいないでしょうか。もっとも多くの大切な事柄を、先生から学ぶとでも誤解してはいないでしょうか。大切な学業を学校の教師から学び、水泳やサッカーをスポーツクラブのコーチから習い、情操教育としてのピアノをおけいこの先生から教えてもらい、英会話を外人講師に学び、まだ不足があれば学習塾で補習授業を受けて、家庭で親がきちんとしつけをしていれば申し分のない子どもに育つとでも思い違いをしていないでしょうか。こんな生活を何年くり返し送っても、子どもの発達の究極の段階とも言える健全な社会化の達成は不可能なのです。

友達からしか学べない大切なもの

子どもが年齢相応の社会性を身につけていなければ子ども達の社会にはなじめません。今日、児童精神衛生のクリニックは社会性の不足した子ども達で大変な混雑です。ある者は種々の身体的な変調を訴える心身症の状態で、またある者達は不登校、かん黙、家庭内暴力、拒食、非行などの非社会的ないし反社会的行動を主徴候にして、親に連れられてやってくるのです。

彼らに共通していることは、何事も大人からしか学んでいないということです。子どもは子どもから学ばなければならないのです。子ども同士で相互に学び合わなければ、子どもは子ども社会に適応するための社会的人格を身につけることができないということです。ですから不登校などの子どもは、仲間や上級生から何かを学ぶ態度や習慣が身についていないとも言えます。仲間から何かを教えられたりする能力がないのです。このような能力は、小学生になって急に身につくものでは決してありません。幼児期からの友達遊びを通して発達的に獲得されていくもので、大人には教えてあげることのできないものなのです。

子どもが友達と一緒の遊びや学習の世界に同化できなかったら一体どうなるのでしょうか。それは年齢にもよりますが、種々の程度の劣等感や絶望感の強い子どもになっていきます。

大人が何をどんなふうに教えても、子どもは決して自発性の豊かな勤勉な子どもには育っていきません。友達のいない孤独な子どもは、たとえ読み書きがよくできたり、ピアノが上手に弾けたとしても、いつまでも幼児性がぬけないものです。成熟していかないのです。社会化の達成は、成熟の最終段階であるということを、もう一度強調しておきます。子ども達は本来みんな、友達をほしがっています。友達と一緒に過ごす時間の喜びを知らない子どもがいるとしたら、これほど不幸な子どもはいないということになるのです。

(Web用に一部省略 文責 高橋健雄)