佐々木正美先生「子ども観」についてお聞きしました。インタビューシリーズ15
Q.先生の子ども観をお聞かせください。子どもというのは、〝授かりもの″だと先生は言われていますね。ところで、埼玉県の秩父地方の言い伝えで、3歳までは神の子、15歳までは村の子、15歳過ぎたら村の人というのがあります。
「なるほど、それはすごくおもしろいですね。そういうことからいえば、自分にとっての子ども観であれば、私も子どもは、神から与えられたと思っています。親が自分で子どもを選択できるわけではない。たとえば、男の子、女の子ひとつとってみてもね。才能とか、個性ももうまったく親が予測しなかった子どもというか、似ても似つかない子が生まれてくる。ですから、それはもう、理屈を越えて、私は、子どもは神から与えられたもの、神の子だと思っています。だから私は親として変に、作為的にあれこれ子どもを修正しょうとか、気に入らないとかは決して思わないんです」。
Q.盆栽をいじるようにしない。
「盆栽の枝を針金で巻いて形をゆがめたり変えたりしてしまうようなことはしないですよ」。
Q.盆栽って親からみた枝ぷっりの良さなんですね。
●お墓を造った時、佐々木家とは入れなかった
「そう。ですから自然に添って、私は基本的にそう思ってますよ。だから、子どもを自分の所有物だなんてまったく思いません。ただ、神から一時的に預かっている授かりものとしての子どもだから、最善を尽くして育てようと思いますよ。で、極端なことを言えば、息子が結婚する場合に、相手の姓を名のることがあっても、ぜんぜん構わないんです。戸籍を昔風に言えば婿養子ですね。そういうものはどうでもよいと思っています」。
Q.佐々木家というのにこだわりませんか。
「こだわらないですね。だからお墓を造った時に、佐々木家とは入れなかった。墓石の隅の方に〝佐々木″と小さい字では入れましたが。というのも、ぜんぜん違う苗字の人が入るかもしれないしね。それは分からないから。一応、誰が何年に造った、ということを墓石に彫ってはおきましたけど、〝家″とは入れなかったのです」。
Q.一時的に、わが家でお預かりしているということですね。
「そう。大事に育てるという、ただそれだけですが、大切なことです」。
Q.そういう意味では、知りあった子どもたちに対しても、〝よその子〟という感覚ではないのですね。
●まわりの子どもが育っていなければ、自分の子どもも育っていない
「そう、子どもは仲間や友だちに恵まれないと、健全には育ちませんから、是非自分の子どもと一緒に育ってもらおうという意味でも、かけがえのない子どもですからね。近所の子どもについても、自分の子どもと一緒に育ってくれる大切な子どもであって、近所の子どもが健全に育たないような地域社会の環境では心配ですね。あるいは自分の子どものクラスの仲間たちが育たないようなクラスの環境で、自分の子どもが育つなんて考えられません。これは決してありえないことですよ。
自分の子どもだけが格別に育つなんて、そんな馬鹿なことを思っている親はいないと思いますが。まわりの子どもがよりよく育たなければ、自分の子どもも育たないのです。例えば、ある海流に魚がいるという時に、群がみんな育っている所でなかったら、自分のめざす魚は一匹も育たない。この山野や畑に自分の木を一本植えるという時に、あるいは自分の草花を育てるという場合に、まわりの木や植物もちゃんと育ってくれる環境でなかったら、自分のめざす木も草花も育たないんですよ。そういう感覚を持っていないとね。お付き合いしている仲間たちが、みんな本当によく育っているから、自分の子どもも引っぱられていく。場合によっては、逆にちょっとくらい相手を引っぱりあげる役割をしているかもしれない。というふうな気持ちをいつも持っています」。
Q.子どもの声がするとホッとする、イライラはしない……、こんなことってありますね。
「全くそのとおりです」。
Q.よく講演の時に、子どもの声がうるさくてということで、講演がしづらいという講師もいますが。
「なるほど、私はそんなことはないですよ。私は平気です。よくね、電車で遠足の子どもたちが、わっと乗ってくると電車の中の雰囲気がわっーと変わるでしょ。先生が”静かにしなさい”なんて言ってもきかない。うれしくて、遠足のことでね。ひどく嫌がっている乗客もいるよね。私はそういう子を、ながめて、ああ、あの子は大丈夫そうだとか、ちょっと仲間から外れてて、心配だなーと思ったりしているんです。たいてい子どもたちは仲間とおしゃべりしてますね。私は電車に乗ってきた子どもと、”どこへ遠足にいくの”、”どこの学校””何年生”などと聞いてたりするんですね。そういうのがおもしろいんです。子どもの声が煩わしいとは思いません。子どもがはしゃいでいるところで、昔から、平気で仕事してますよ。
息子たちは今は大きくなって、はしゃぎはしませんけど、私は自分一人の静かな書斎はあまり使わないで、子どもたちのいるところで仕事をすることが多かったために、家内に”あっちで、書斎でやって下さい”と言われてました。
食卓の上の物をどけて、みんながおしゃべりしたりしている所で原稿を書いたりするので、”どうしてこんな所に資料をもってきてするの”と言われたりします」。
Q.子どもって、好きな保母さんと好きでない保母さん、自分を好いてくれる大人と、嫌がっている大人と、何か、こう感じるようなところってありませんか。
「犬でも感じるよね。家に来る人で、犬を好きな人は犬を恐れないよね。犬を嫌いな人は恐れるでしょう。恐れる人を、ほえちゃうんですよ。犬はわかっちゃうからすごいね。
犬を恐れないというのは、好きだからでしょ。そういう人は少しくらいほえられたって、平気なんだけど、そういう人にはほえない。おびえる人にほえちゃうから、本当に困るんだね。
Q.子どもにもわかりますよね。子どもと一緒に遊んでくれる先生だとか、大好きな先生だとか子どもの方でわかって寄ってきますね。
犬でもわかるんですからね。
●育児を放っといて、他にやりがいのある仕事はない
前に、『ことばの森』という本が出版されたけど、その中で、杉浦さんが私の講演の中から言葉を選んでくれた。育児ほど創造的な仕事はないと思う。だから育児を投げ出してまでやる仕事はない。育児を放っといて、他にやりがいのある仕事なんて、本来、全くないと思う、というような意味のことを私は言ったというのですが、本当にそう思っています」。
Q.もしも、子どもがむずかしく育ったら、仕事を辞めてでも側にいてあげたいと先生は言われたことがありますね。
「そう、絶対そうしてあげたいですね。最少限、生活に必要な収入を得るためには出掛けて行きます。それは育児をするために必要なんだから。私は絶対そうすると思います」。
Q.これはむずかしいな。問題があるなと感じた時には、外の仕事よりも、家の中の子どもの方をとるという。
「そう、その方をとります。そのために働いているようなものだから」。
Q.父親としては、めずらしいでしょ。普通は。
「母親だって、父親だって基本的にはそうであって、子育てはそれでいいと思っています。というのは、いい自動車をつくったり、いいコンピューターをつくるより、いい子どもを育てる方がはるかに価値が大きいと思うのです」。
Q.子どもがむずかしくなると、お父さんは仕事に逃げちゃう。そういう傾向があるような気がします。そうでなく人間を育てていくという場合に、自分の存在が必要だったら、何よりも優先してやると、こんな感じですか。
●見事な肖像を描いても、実際の子どもにはかなわない
「そう、彫刻家のロダンがどんな立派な彫刻を作ったって、実際の人間そのものにはかなわないと言っています。だから育児以上の創造的な仕事はないと思う。本当にそう思います。自分の芸術をするために、自分の子どもを放っておくとか、ないがしろにするとか、もしそんなことがあったら、主客転倒です。まして、自分の都合のために子どもを放り投げておくことがあったら、こんな情けない、心の貧しいことはありません。生活の糧を得ることが絶対必要なら、それは子どもを育てるために必要なものだということです。もちろん子どもの側に、べったりいることが育児だということではないのですが、働きに行く、子どもの学費や食事、洋服を用意するといったことは立派なことですよ。ところが、したいことをしたいために、子どもを無理やりどこかに預けるというようなことがあったら、これは人間として生き方の主客転倒です」。