13.思春期


佐々木正美先生に「思春期」についてお聞きしました。 インタビューシリーズ13 

Q.思春期とはどういう時期なのか、中学生の14歳というと、思春期の嵐とか、暴風雨とかいわれ、親も、子どもとどう接したらよいのか悩みます。子どもの方でも何かイライラするし、むかつくなどといった言葉をよく使います。思春期とは人生の中でどういう時期なのか、先生は反抗期の総仕上げの時などと言われてますが…。

●思春期は、現実的な自分を見る時、そして自分への客観視にギャップを感じる

 「思春期は、生涯でいちばん大きな迷いの時期だと思います。というのは、それまでの子どもの時期から、自分で人生の全責任を負って生きていく大人への自立していく過渡期でしょう。いわば橋渡しの時期ですね。依存期と自立期の間にある時期でしょう。それまでは、ある程度、無責任に振る舞っていてもよかった。これからは責任のある振る舞いをしていくための準備をしなくてはならないわけです。これは、言ってみれば、人生の進路についておおよその目標をつくらなければならないといったことでもあります。

 子どもというのは、それまでは主観的な世界にいて、だんだん思春期に向かって、自分を客観的に見つめる世界に入って行くわけです。主観的な時期というのは、主観ですから自分で自分の希望を、無限に描いていればいいわけですね。ところが、自分で責任を負わなくてはならない時になると、現実的に自分を考えなくてはならないわけでしょう。現実的に考えてみる自分と、夢のように主観的に考えていた自分と、その現実的な自分との間に大きなギャップをみつける時期でもあるわけです。というのは希望と現実の間に大きな差があるということです。すなわち思春期は、自分の容姿を鏡にうつしてよく見るように、外見ばかりでなく自己の内面も客観的な眼で見つめようとするのです。幼児期は主観の世界に生きているのですが。

●思春期は、迷いと混乱、希望と絶望が変わりながら生きている

 いろいろな能力にしても、容姿にしても、さまざまなものに対して自分の欲求や希望と現実は大きく違う。その中で努力しながら、うめあわせするにしても、随分と差がありすぎるわけです。ですから、どこまで努力できるか、また不可能なことについては、おおよその折り合いをつけるわけですね。そんなにビシッと希望どおりにいくわけではないですから、さまざまに悩むわけですよね。ハンス・カロッサの小説に『美しき惑いの年』というのがあります。思春期は、迷うから美しいんだというふうに、人生の中で美しく輝く時期とハンス・カロッサは言っています。また、ゲーテは、努力している限り迷うんだ。迷っていることは、努力している証拠であると言っています。思春期は、そういう時期なんですね。迷って混乱している。あるいは希望と絶望とを、コロコロと変えながら生きているんです。これがいいんですよね。この時期は、まだまだ自立していないわけですから。それを家族や教育者がどう支えるか、と同時に仲間とどう支えあって生きるかが大事だと思っています。

●思春期は、親や教師のへたな助言や忠告を嫌う

 それまでの小学校やクラブの遊び仲間ではなく、迷いや不安、混乱を支え合う仲間が、この時期必要となってくるわけです。そして、同時に親や先生からも支えられなければならないのです。けれども、思春期のこの時期というのは、主義、主張、趣味、価値観、感性などが、一致する仲間とはとても深い共感を示し合います。そうでない人の意見は、ますます迷うことになったり、イライラとしたり、むかついたりして排除するでしょう。ですから、へたな助言とか、下手な忠告はとても嫌います。この時期は、親にしろ、教師にしろ、そのことを承知していないと、いけないんですね。思春期の若者というのは、そういう意味で、理想と現実との間で、ひどく苦しみ、迷い、悩んでイライラしている。このことを知ってあげないといけないんですね。

 まだまだ、この時期は夢の時代で、主観の世界のなごりが十分残っている時期ですから、理想を追いかけているのですが、実際、現実とはうんと違うためにとても苦しむのです。そして自分の理想を親にも教師にも、しばしば求めるわけです。ところが、親や教師は決して理想の人間ではないわけですから、弱点や欠点や不満を感じるところが、非常に目につくんです。だから強い反抗をしたり、拒否をしたり、軽蔑したり、攻撃したりすることが思春期の若者にはあるのです。社会に向かって反抗することももちろんあります。

●思春期の迷いが大きく、混乱が大きいことが、花の開き方に影響する

 それを同時に自分にも向けて苦しむことがあるんです。理想論から見て、自分がいかに至らないとか、努力が足りないとか、能力が乏しいとか、こんなことを感じるんです。そういう時期なんですよ。だから嵐なんです。それを、こっちが承知してゆっくり見守り、待ってあげ、元気づけてあげる必要があるんですね。我が家の息子たちは3人いますが、思春期は三者三様でしたね。ああ、こういうことで迷っているなとか、悩んでいるなとか、苦しんでいるとか、これはよく分かりますよ。それを脱していくプロセスを毎日側でみているのは、非常に楽しいですね。親冥利に尽きるものがありますね。このときこそ頼まれもしないのに、よけいなことを言わないことです。

 思春期に種々の程度に自分が傷つくことはしょうがないと思っています。人を傷つけるとか、他人(ひと)さまをどうとか、これはとんでもない問題ですが、まあその傷を癒やすために、いくらまわり道をしてもいいのです。長い人生なのですから。10代、あるいは20代のごくはじめで、あと50年、60年人生はあるわけです。その中の1年や3年くらいを、どう迷って、悩むかですが、この迷いが大きく混乱の大きいことが、花の開き方の大きさに影響するとも思っています。ずっと、のほほんと迷いもしないで、疑いもしない。苦しみもしないで、ボッーと行ってしまったら、たいして成長がないとさえ思ったりもします。だからこの時期の心の嵐はいいんですよ」。

Q.この時、よい友人がいれば、上手に嵐をくぐりぬけていくわけでね。

「いきやすいですね」。

Q.なかには友人がいないで親に暴力を振るったり、弟や妹に手をあげたりすることをよく聞きます。

●共感とか感謝があって、尊敬できる人がいることが大事

 「それからもう一つは尊敬できる人がいること、これは大事ですよ。友人に抱く感情は基本的には尊敬というものより敬愛とか、共感ですね。尊敬と共感は近い感情ですが、友人は共感の対象ですよ。尊敬できる先生とか、あるいは歴史上の人物とか、親とかその他実在の人間でもいいし、架空の人物でもいいんですね。はっきりイメージできればです」。

Q.自分が成熟していくためのモデルですね。

 「自己同一視のモデル。だけど人を尊敬するという感性が育っていないと、本当の意味でのモデルはもてないですよ。そうでないと猿まね的になる、共生するみたいになる。ただ服装や髪形のような恰好(かっこう)だけをまねて行動する、すなわちアイドルと心理的に共生するといった具合に。多くの思春期の若者に、そういうことは個人差はあっても、ある程度共通した心理的傾向でしょうが、だけど、そればかりになってしまうことはありますね。尊敬するほどの対象があればいいのですが、これはやっぱり、共感とか、感謝とかの感情がなければ、ならないと思っています。仲間に共感、尊敬すべき人がいて、親や教師からは、自分の気持ちをさかなでするような干渉をされず、悩みがあれば原則的には自分と仲間の力で解消していく、親はサポートでいいんです。この時期の子どもを持つと親は面白いですよ」。

Q.第2の子育ての時期とか。

 「親に本当の意味での出番が、まわってきたという感じがしますよ。子どもの時は、やれ御飯だ、やれ怪我をしたと世話をやかなければならない。動物の子育てとあまり違わない。しかし今度は、そういう世話をやかないで、いよいよ人生の先輩としての本格的な親の役割が求められる時です。精神的なサポートでいいのですね。見守っていてやるだけでいいのです。それでいいのです。子どもたちのすること、考えることが手にとるように見えて楽しいですよ」。

Q.口では、だいたい母親の方が負けますよね。子どもの方が口が立つし、考え方が論理的です。

「親は衝動的、感情的になりがちで、昨日言ったことと違うことをしばしば言ってますよ」。

Q.この時期、思春期の子どもへの親の接し方というのは、つかず、離れず、一定の距離をおきながら、愛情をかけていくやり方でしょうか。ある程度、スタンスをもっていないと、こっちがあれこれ言っても、その時期ではないですね。あれこれいうのは、小学校の時くらいまででしょうか。

●息子に教えられる

 「かつて息子たちとおしゃべりをしていた時、テレビで誰かが、”正直言って”こうですよ、と話していたんです。別のチャンネルでは誰かが、”はっきり言って”これはこうです、ああです、と言ったんですね。それを聴いていて私が、”正直言って”とか、”はっきり言って”とか言わないで普通に、”僕はこう思う”と言った方がいいよね、と息子たちに言ったんですね。で、子どもにも、できることならば、”正直言って”こうだとか、”はっきり言って”と断り書きをしないで、そのままストレートにものは言ったほうがいいと言ったんです。

そしたら息子の一人が、それはどうしても”正直言って”とか、”はっきり言って”とか、言わざるをえない時があるんだ、とこう言いはじめた。そこで私はどういう場合かと聞いてみたところ、本当ならこんなこと言って失礼だとか相手の気持ちを傷つけるかもしれないとか、ちょっと差し控えたい気持ちがあるけれども、やはりどうしても話しておきたいから、いきなり言ったら、誤解を招くかもしれない、だからいきなり直接言わないで”正直言うと”こうだ、という言い方をするんだというのです。お父さんのようにわりあい自由にあちこちでいろんなことが言える立場の人には、分からない感情かもしれないと、こんな厳しいこと言われました。だから、そういうふうに言わざるを得ない人の気持ちを分かってやらなくてはねと。正直に言いたいことを言える立場にいる人とそうでない人がいるんだ、と言われ、ああなるほどと思ったんですね」。

Q.教えられてしまいますね。思春期の子どもがいるお陰で、こちらの親もある種の感性を育てられるところがありますね。思春期の子どもがいないと、呆(ぼ)けに向かって行くようなね。悩みがなければ呆けですよね。

●若者は家に帰って来て息を抜くので、不作法をする

 「そうです。若者というのはいろんな悩みを持って家に帰って来るでしょう。家に帰って息を抜くわけですから、不作法をしたり行儀の悪いことをしたり、いろいろするわけです。そのときに親は”ひじをついて”とか”だらしのないことをして”とか言いたくなるでしょう。そうすると若者たちはとても嫌そうにするんですね。そんなときにはそうせざるを得ないほど、切羽詰まった気持ちとか悩みとかがあるのではと思いやってやらなければいけないこともあるのだと思いますね。

 ふだん、上機嫌とか調子のいい時には、そんなことはしなかっただろうに、冷蔵庫から食べ物の出し方にしろ飲み方にしろ、牛乳パックをガタッとゆすってみて残りが少ないと思ったらラッパ飲みしたりとか。そうするとひとこと言いたくなるわけです。”あとの人が飲むかもしれない”と。すると”ちょっとしかないから僕が飲みきっちゃうんだよ”と言って怒ったりする。いちいちそんなこと言うなとも。それでも親はコップに入れろと言いたくなるわけです。だけどそういうときは、何かあるんだ、普段ならそんなことしないのに、そういうことをしたくなってしまう何かがあるんだと思ってあげたいですね。そんなことは些細なことで、その背景にどんなことがあったのか分からないわけです。そういうことがあって、何日か経って、もう自分の気持ちの中にしこりが残らなくなった時に、ふっと”あのときこうだったんだ”と親に言ったりする。親は言わなかった方が良かったのか、あのとき言っておいたためにそういうことが分かったんだから、やっぱり言っといた方が良かったのか、ということですが、その辺の問題が親の分別でして、たいていの場合はそんなこと言わなくたっていいと私は思っているんですけどね」。

Q.親というのは子どもが目の前に現れたら、何か教育しなければいけないみたいなこと意識しますよね。言うことの一つひとつは間違ってはいないと思うんですけどね。

 「だから子どもを苦しめてしまうんです」。

Q.教師もそうですね。

 「おまわりさんもそうです」。

Q.自分を見つめ、他人に対しても意識が過剰になる。そういう時期ですね、思春期は。

他人の目やスカートの丈、ズボンの太さが気になる、あらゆることが意識過剰になる時期ですね。

●人の目が気になることは、ある意味では健康なこと

 「そうです。人の目が気にならなくなったら呆け老人みたいなものですよ。思春期が、いちばん気になるわけです。だんだん気にならなくなってくる。人の目が気になるということは、ある意味では健全なことです。それは特別に悟りを開いた僧侶とかは、人の目を気にしない。それは別の意味で立派なことですけれどね」。

Q.だから流行っていうのは思春期あたりの自立前の人たちをねらうんでしょうね。自立したら自分の似合う服を着ればいいわけですよね。

 「そうです。本当に自主性や主体性ができれば、流行に左右されなくなってね」。

Q.ある時期誰にでもあるんですけどね。親や教師は昔の自分のことは忘れてしまうんですね。

 「人間というのは自分がどういう気持ちでいたかということは、本当に大きな出来事でもないかぎり、詳しいことは忘れますね。忘れてしまっていて、その時その時の感情であれこれ言ってしまいやすいということですね」。

Q.それで自分は親孝行だったみたいなことを言うんです。思春期の頃、新聞配達をやっていたとかね。正しいことを言い過ぎては駄目なんですね。

 「そう思いますね」。