4.優越感と劣等感について

佐々木正美先生「優越感と劣等感」についてお聞きしました。インタビューシリーズ

Q-人の幸福に対してやきもちをやいたり、ねたんだり、嫉妬(しっと)したりという心が人にありますね。

 能力の優れた人に会った時、尊敬できるか嫉妬するか

 人間には優越感と劣等感といった感情があります。元凶は、孤独の程度ですね。孤独でないということは、人から愛されているという実感があること、だから人を信頼している、人の良さを感じられるというものがもとにあるからでしょう。だから能力の優れた人に会った時には尊敬できるんですよ。ところが同じ出会いをしても、そういう感性がない人は、ねたみとか嫉妬をするわけでしょう。また、あることに対しては自分より能力の劣っている人に出会った時に、同じ状況でも、健全な誇りの気持ちを持つ人や、劣等感の裏がえしの優越感を抱く人がいるわけですね。そこが問題で、どれくらい信頼関係のある人間関係をいろんな人と相互に持ちあってきたか、ということが大切だと思います。信頼関係というのは、あの人と一緒にいられてうれしかったとか、あの人と友だちになれてよかったとか、今日あの人と会えて良かったという気持ちの余韻を残せる人じゃないかと思いますね。あの人と早く別れてほっとしたとかね、今の人はこういう人が多いですよ、子どもでもね。

 だから、健全な子どもというのは、友だちとついおしゃべりが過ぎてしまって、遅く帰って来る、これは健全なんですよ。一人でほっつき歩いて孤独に時間を過ごしてるんではなくて、仲間ともう30分、もう10分とやってるうちにそうなってしまうわけでしょう。友情の中には必ず感謝とか敬意といった感情がひそんでいるもので、だから友だちと話がはずむということは、本質的に、これは非常に健全なことなんです。

Q-優越感と劣等感は多かれ少なかれ誰にでもあると思いますが…。

 仲間と一緒に育ち合うことを知ると、優越感、劣等感は育ちにくい

 私たちは、基本的には、誰もが優越感や劣等感はもっていると思うんですね。だけどそれが、とても強い人とそうでない人がいるんだろうと思います。私は、子どもを育てる時に子どもを競争原理の中で育てすぎると、優越感と劣等感が、強くなりすぎると思っていますね。親が自分の子どもを育てる時に、うっかりすると過剰ないし異常なまでに、他の子より優れた子になって欲しいと思ってしまうんです。そして、それほど露骨に思ってなくても自分の子どもだけうまく育てばいいみたいに思ってしまうと、優越感や劣等感という感性を強く育ててしまうと思うんですね。

 子どもというのは仲間と一緒に育ち合うんだということを私たちが実感として知っていると、優越感とか劣等感は育ちにくいと思っているんですね。子どもが育つということは、実際、自分の子どもだけがうまく育つといような状況では、あり得ないことなのですね。自分の子どもと一緒にうまく育っていてくれる子どもが周りにいてくれなかったら、自分の子どもはちゃんとは育っていかないと、こう思うべきだと思います。

 これはもう植物とか、魚とかと同じことだと思っているんです。魚でも、群れをなして回遊して育っていくでしょう。植物でも、いい環境では周りの草花と一緒に、あるいは同じ仲間の木と一緒に育っていくわけでして、育つというのは結局、育ち合う環境において育ち合っていなければ、どんな子どもも決してうまく育っていないと思うべきです。

 育ち合うということは結局、子どもが仲間と育ち合うんですから、仲間と共感し合っているという状況がなければならないわけですね。そうすると自分の子どもが他の仲間より優れている点は確かにあるし、逆に自分の子どもが仲間より劣っている点もあるわけです。ところが、育ち合っているということ、あるいは、仲間たちと共感し合いながら育っていると、自分が仲間よりよくできる点があった時には、優越感なんかにはならないで、ある種の誇り、非常に健康な喜びの感情を持つと思うんですね。逆に仲間の方がそういうものを持っていてくれれば仲間に対する共感とか尊敬の感情とかになるのです。これがすごく大事だと思うんです。

 優越感は必ず劣等感を背中合わせに持っている

 ですから、仲間より劣っている時に劣等感を持つという感覚と、仲間より自分が優れている時に優越感を持つという感情というのは同じことであって、劣等感のない優越感というのはないんですよ。優越感というのは必ず劣等感を背中合わせに持っている感情ですから、優越感の強い人というのは間違いなく、どこかに劣等感を強く持っているわけですね。

そうでなければ優越感というのはありえないわけです。表と裏の関係ですから表だけあるなんてことはないんですね。健全な誇りとか共感とかという感情は、自分に不十分な点があればそれは仲間から分けてもらえばいいんだとか、誰かに頼ればいいんだとか、あるいはひょっとして自分の努力が足りなかったからだという反省、内省、自己洞察ということになる感情ですね。ですから、友だちなどできるだけ多くの人と共感し合いながら育っているということはとてもいいわけです。

 基本的に家庭で優越感や劣等感のない育児を

 ところが共感性のない、競争原理だけで育てようとすると優越感と劣等感を育ててしまうんですよ。優越感というのは非常に怖いですよ。人を見下げる感情ですからね。

 例えば、親が年老いて能力や力が劣えてくれば、親を見下げるかもしれません。自分より少しでもある能力を持った人がいれば嫉妬や敵意を感じていたり、あるいは媚(こ)びへつらったり、前進ができず結局はつらくて退却してしまう。劣等感を感じることの恐れからですね。ですから学び合えるような友だちは絶対にできないです。現代っ子がなかなか友だちと安定したいい関係を保ちにくいのは、優越感や劣等感の感情を子どもの中に育てすぎてしまうからだと思います。

 これは学校だけで解決することは決してできないですね。もちろん、家庭だけでもできにくいかもしれないです。だけど基本的には私は家庭で優越感や劣等感を育てない育児というのを、本当はできると思っています。優れた仲間の中にいた時には、相手にある種の尊敬を感じる。決してねたみとか、敵意を感じるのではないと思います。自分の方が優れているなと思う側面があっても、それは優越感になるのではなくて、言ってみれば健全な誇りの感情、健全な自信につながると、こういうふうに育てるのが私は、うまい育児法だと思っています。いちばん悪いのは一面だけで他の子どもと比較しながら育てることですよ。

 ある中学は人間にいろんな価値があることを見据えて教育する

 ある中学校の話を聞きました。その学校は全人教育という理念で教育をしているんですね。決して、ある一面だけで人間を評価しないし、一面だけを重視して子どもを育てるというようなことをしない。人間にはいろんな価値のある資質があるということをよく考えて、数学や国語などの学科だけができればよいという子どもでなく、芸術、体育、宗教などを含めた全人間への教育を目指しているのですが、一方、偏ってる子どもがいますと、その子を無理になんでもかんでもバランスよくしようとはしないようです。人間にはいろんな価値があるということを非常に、しっかり見据えて教育するんですね。

ですから、仮に数学がよくできることも、仲間と協調してスポーツをよくやることも、あるいはボランティア活動のようなことをやることも、あるいは学校の内外で労働作業をやることも、みんな等しい価値をおかれているわけですね。できることならそういうことを、できるだけ広く自分の能力として取り入れられることを期待するし、どういうことができても、それぞれ等しく価値のあることなのです。そういう教育をして、そして誰との比較で誰を評価するということを決してしないというわけですね。私は大変素晴らしいことだと思っています。ですからそこの学校は非常に友だちができやすいようですね。また、ある特定の個性的な領域について、よくできる子がたくさんいるんですね。だから、個性的な子も、バランスのよい子もいっぱいいます。

 劣等感の裏返しの行動として攻撃的な感情を誰も持つ

Q-優越感と劣等感を裏返せば、一つの形として攻撃性でしょうか。ということは、いじめの問題なんかも出やすいですね。優越感と劣等感を自然に意識するように育てられてきた子どもというのは、自分よりも優れた子とか、自分が持っていない点を持っている子とかを狙ったりすることがあるでしょう。愛情を受けた子どもたちの集団であれば優れた面を持つ子に対して、評価する気持ちと、ほれぼれする感情を抱くんでしょうけども、劣等感を育てられてる子どもの集団ですと、何か優れている子どもに対しては妬みや敵意を感じて、つい狙ってしまうようなところがありますね。

 あるでしょうね。というのは、相手の、ある種の優れた面に対して嫉妬とか敵意を感じるということは攻撃的な感情そのものですからね。それから、今度は優越感を持っているということは必ず劣等感を持っていることですから、劣等感の裏返しの行動として攻撃的な感情というのもみんな、誰も持つわけですね。ですから劣等感を覆い隠そうとして、より劣った対象に対して非常に敏感になるんですね。それはもうよくあることです。優越感というのは必ず劣等感を持っているから怖いんですね。劣等感というのはまた、優越感から来ることですけどもね。

区切りの絵

 子どもの持つ価値を認めて育てれば学校の序列は問題でない

 子どもを比較しながら育てる、そういう意味では偏差値教育は悪いですよ。偏差値教育というのは序列をつけてしまうという意味で悪いですね。だけど本当は、偏差値教育の今の風潮の中にいるから子どもが曲がるといったことではなくて、家庭が大事だと私は個人的にはそう思っているんです。それぞれの子どもの持っている価値を多様に認めてしっかり育てていれば、学校の序列などは、たいした問題にはならないですよ。私はあえて言えば家庭で子どもをどう育てるかだと思います。偏差値教育の中で重大な影響を子どもたちが受けてしまうとすれば、それは家庭が子どもにちゃんとした影響を与えられないというところにより大きな問題があると思います。

 私は自分の子どもが偏差値がそれほど高いなんて思っていませんし、低い子どももいるかもしれない。そんなことより無意味な偏差値の獲得競争をしないようにと、あれこれ気遣いをしています。それで、極端なことを言えば自分よりいわゆる偏差値の高い大学に入った仲間に対して劣等感を持ったり、偏差値の低い大学へ入った仲間に対して優越感を持つということには恐らくなっていないと思っています。そのことがとても大事なことだと思うんですね。それは偏差値は高い方がいいでしょう。でもそれは人間のある一面だけですよね。だけど、もっと他にも人間として大事なものがあると思うんですね。

  人間にとって他にももっと大事なものがあることを気づくことも発見することもできない家族が問題で、恐ろしいことだと思います。それを親が認識していればいいのです。要するに親が偏差値以上に価値のあるものを、子どもに教えられなければ子どもは偏差値に、がんじがらめになるということですよ。親がしっかりとしなくてはいけない、基本的に私はそう思います。

 Q- 子どもに優越感とか劣等感を育ててしまったというのは、その親もまたこういった傾向のものを持っているということもありますね。

 偏差値以上に価値のあるものを子どもに伝えられない親がいる

  そうでしょうね。親自身そういう価値観を持ってるということでしょうね。そして偏差値以上に価値のあるものを子どもに伝えられない。そんなことで子どもが健全に育つはずがない。だから、誰がけしからん、政治が悪い、教育が悪い、何がダメだと言ってしまう。

 自分が住んでいる町も気に入らない。よく自分が悪い、自分の家庭が気に入らないって言わないなと思ったりしますけども。子どものためにいちばん大事なのは家庭なんですよ。家庭がしっかりしていれば、子どものたいていの問題は防げますし、きちんと育ちますよ。そういう認識が現代人には不足がちでしょう。何でも不都合があると、誰かの責任にしたがる……。だけどその家庭というのは、地域社会の反映であり、地域社会はその時代の文化の反映でもありますから、憤然と時代の波や流行に流されないようにしませんとね。子どもの心に優越感と劣等感を植えつけてしまいやすい……、そんな時代の波に巻き込まれてはいけないと、しっかり思いませんとね。

Q-人格的に成熟している人というのは、内省する力といいますか、人のせいにばっかりするのではなくて、自分を振り返る力、自分の至らない点を思いめぐる力みたいなのがありますね。しかし、誰にでも劣等感というのはあると思うんですが。

  ありますね。劣等感があるということは、同時に優越感があるということなんです。だけどそれを最小限にして、自信のある、健全な誇りの気持ちを持つとか、反省の習慣にするとかね。

 自尊心と優越感は似て非なるもの

 優越感と劣等感は全くの背中合わせの感情だと思うんですよ。また、欲求不満というのは向上心の基盤をなすものでしょう。欲求不満がなかったら向上心はもうないわけです。だから欲求不満というのは悪いとばかり言えないわけですね。しかし優越感とちょっと隣あった、似たような感情に誇りの感情がありますね。人間が持っているプライドとか、自尊心とかというものは優越感と紙一重、あるいは非常に近い感情です。

 ところが、私たちが自尊心と優越感という別の言葉を持っていることは非常に似ているけど非なるものなんですよ。優越感というのは相手を見下げる感情、時には相手を非難することですから、相手の人格を認める感情とはほど遠いわけですね。自尊心というのは、誰からも冒されてはならない個人の人格的な尊厳があるという誇りの感情です。そして本当の自尊心は自分にもあるように相手にもあるという感覚をちゃんと承知してるというところに、私は本質的に区別される部分があると思うんですけどね。