2.感性・創造性を育てる

佐々木正美先生 インタビューシリーズ

感性・創造性を育てる

Q.豊かな感性を育てるにはどうしたらよいでしょうか

「感性を育てるというのは、自分のものの感じ方を育てるわけでしょう。自分のものというのは、自分自身がなくてはならないわけですね。自分がないというのは、過剰干渉されすぎれば、子どもは、自分を失くしてしまいます。受容的に、許容的に、受け入れられれば、すなわち愛されている実感があればあるほど、自分というものができるわけです。

そして、自分という者の存在に、自信をもっていなければ、自由に感じられないわけです。人の目が気になり、どうすべきかに頭が行きすぎてしまうのです。どうしたいか、という方に感じることができるから、豊かな感性が育つわけです。何をどう感じなくてはいけないという定義は全くないわけでして、その子自身が自分流に豊かに感じられる感性があればよいわけです。しかし人間には、人間として当然感じなければ人間といえない、感性があると思います。

相手の立場を感じない人の感性は本当の感性ではない

自由にものを感じるということは、実は深い所で、相手の立場を感じることができることでして、相手の立場を感じることができない人の感性は、本当の人間の感性といえないと私は思います。相手の立場を考えることのできる感性は、相当広い、自由な、素直な感情が育っていなければ、そういう感性には、ならないと思います。自由にものを感じられるというのは、好き放題、やりたい放題のことをやるということではありません。自由というのは責任を伴うということがあるように、義務と責任があるから、人々は自由社会に生きられるということと同じように、本当に豊かな独創性のある人間の感性というのは、相手の立場を考えることができる感性があることだと思います。これが最も人間らしい感性といえるのではないでしょうか。

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過干渉と放任は欲求不満になる

こういう感性は、強い欲求不満があってはだめなのですね。子どもの欲求不満には、二通りあると思います。ひとつは自分の欲求が十分に満たされていない、要するに、十分手塩にかけて育てられていない。こういうときに欲求不満になるわけです。もうひとつは、過剰に期待や干渉されている場合です。こうしろ、ああしろが多すぎることですね。過剰干渉については、今、お話ししました。一方、干渉と反対の放任というのも問題です。子どもたちは、放ったらかしでは、決して豊かな感性は育たないのです。自分が大事に育てられることによって、初めて人を、そして自分を信頼することができるわけです。

自分の欲求が大きな親の力によって十分に満たされると、子どもは、自分の存在を安心して信じられるのです。ですから、自由に放ったらかされている中では育たないのです。操作され過ぎても、自分というものは育たない。だから、放任と、過剰干渉は、どちらもだめだろうと思いますね。自分が本当に望んでいることを、基本的には豊かに、承認されて育てられることで、初めて、子どもの中に豊かな人間らしい感性が育つだろうと思っています。

このように伸びやかに生き生きとものを感じることができるのは、さきほどいいました放任と過剰干渉の中では、絶対に育たないのです。生き生きと自由に感じることは、自分の立場からです。同時に、他者の立場にも、必要に応じていつもなれる、この二つの側面がなければ、人間らしい本当の感性を、持っているということにはならないと思います。感性というのは、ない場合にはどうしょうもないんです。

ロックやジャズに対する感性は多少あってもなくてもよい

例えば、私は、音楽でいいますと、ロックはどうしても楽しめないんです。くだらないとかではなく、楽しめないものは楽しめないんですね。それから、絵画にしたって、ピカソの絵が分かるかというと、分からないですね。理解し、感じる感性がないのです。全然ないわけでは必ずしもないのですが、解説書を読んでみて、初めてそういわれれば、ああ、そうかとその程度しか感じない。感性がないんですね。ところがモーツアルトや、ベートーベンは感じることはできるし、演歌も感じることができます。だけど、ロックやジャズの多くは、感じることができない。それは感性がないんです。そういう感性は多少あってもなくても人間としてはどうこういうものではないと思うのです」。

Q.好き嫌いですね

相手の立場で感じることができない人にはできない


「そう、好き嫌いです。だから、人間というのは、あることに対して感受性があるかないか、これはないものはないんです。本当にどうしようもないのです。もちろん、ジャズをちゃんと勉強して、教育を受ければ、ジャズに対する感受性はだんだん育つだろうと思います。あの音楽が何歳になったから感じることができないといった、手遅れはないと思う。ところが、人間の最も人間らしい重要な感性というのは、もちろん、大きくなってからでは絶対育たないという意味ではありませんが、大きくなればなるほど、ない感性を豊かに育てるのは、むずかしくなるでしょうね。例えば、相手の立場に立って、ものを感じることができない人は、本当にできない。どうしてあんな、ぞっとするような犯罪行為ができるんだろう、と思う人がいます。できる人にはできるんですね。人間のもっている感性みたいなものは、恐ろしいといえば恐ろしいことですね」。

Q.譲り合いで、入れる、入れないとかありますよね。江戸時代なんか、道が狭くて、傘を差した人がすれ違う時、傘をすぼめたり、反対側に傘を向けたり、傘が当たらないように斜めにすぼめたりする、そういう感性が庶民にあった。相手のことを気づかう。これが、今の時代は、車が込み合って、我先と競って入れないことが多いですね。

「歩いている人にもあるでしょう、歩行者天国でも、混雑するラッシュアワーのプラットホームでも、ぶつかることを予測してわざとぶつかってくるとか、そういう人がいますが、そういう人自身も不幸ですね。家族や友人ともうまくやっていけないですよ。相手の立場になれないのですね。近所の留守宅の宅急便などを預かることがわずらわしい。そういう人が、二人に一人いるという時代になってきたといいますね」。

Q.これらは人口の過密と豊かさがその原因とでもいえるのでしょうか

「過疎で、まずしい時代にはなかったことですね。以前の人は相手が喜ぶこと、感謝されることを喜びと思っていましたから」。

Q.お互いさまですからと。

「その通りです」。

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感性は地域社会や家庭という生活の場で育つ

Q.その感性は、子どもに対して親が鈍感だと育ちませんね。

「親が鈍感では育ちにくいです。先生だって、学校の中だけで子どもの感性は育てられるものはではないのです。家庭の中で特に育てられると思います。もちろん、家庭も学校もその気になってやれば、もっとよく育つと思います。というのは、感性は生活感情の中で育つんです。ひとつは、学校は生活の場ではないんですね。残念ながら、地域社会や家庭の方が生活の場といえます。感性は生活感情の中で育つものだから、例えば、塾等で育つものでもないように、学校が本当に生活の場になればいいですけど、やっぱりなりにくいですよね。私たちが子どもの時代だって、本当の生活の場は放課後の方だったと思いますね」。

映像の文化に頼りすぎても感性は育たない

Q.作文が書けない子が増えてきているといわれます。何時に家を出て、何時に昼食べて、何時に帰ってきてと。出来事は書けるけど、感性である、楽しかった感動とか躍動するとかを作文に書けないと聞きますが…。

「もうひとつ、それは映像の文化に頼りすぎても、やはり本当の感性は育たないかもしれません。傍観的でいつもいるわけですから、自分が主体者にならないわけですね。よく言われることは、映像文化の中と文字文化の中といった場合に文字文化は、自分が早さも区切りも調節するんですね。それから文字そのものは、イメージではない。映像はそのままイメージです。文字の中から、イメージは自分が作らなくてはいけないのですから、映像とは違った感性が育つんです。より創造的といってよいと思います。あるいは、自主性のある個別的といっていいと思います。

ですから、名作が名画になることってあるでしょう。『伊豆の踊り子』などそうでしょう。いい小説が、いい文学が、いい映画になることは、しばしばあるでしょう。そうした時に、本を読んでから映画を観た人というのは、イメージが違うと、だれもが思うんです。ぴったりはないわけですね。かなり自分が思い描いたものと近い人もいれば全々違う人もいる。それは、文字の中から自分がイメージしたものと映画にされたものとは食い違いがあるわけですよね。

自分が映画を作るとしたら、ああしなかった-これが感性

ところが映画しか観なかったら、あれが『伊豆の踊り子』だと思うのではないですか。文字を読めば、自分の『伊豆の踊り子』があり、人の作った『伊豆の踊り子』とはこんなに違うというものがあるわけですね。それで、自分の描いたものになかったよさを、部分的には映画に感じる人もいるだろうし、自分がもし映画を作るとしたら、ああしなかった、こうしたかったと思うかもしれない。これが創造性であり、感受性、感性の問題だと思います。映像文化だけの中に、子どもをどっぷり漬からせておいては、マンガしか読めない、絵がないとイメージが浮かばないといった子どもにしてしまう、ということでしょう」。

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■創造性       

Q.創造性を育てるには何が大事でしょうか。

「国学院大学の樋口清之先生が創造は模倣から始まる、と言っています。全くその通りです。わかりやすい例でいえば、ブラームスの一番の交響曲は、ベートーベンをそのまま、まねたとよく言われるわけです。ベートーベンの手法、音楽をお手本にして一番を作った。本当に模倣的な創造で、まねだってすばらしいです。いわばベートーベンの交響曲十番と言ってもいい価値がある。それから二番、三番とだんだんブラームスのオリジナリティーなるものを作っていった。

創造性の背景には模写や模倣がある

人に聞いた話で、多少正確ではないところがあるかもしれませんが、G大の美術科に入った学生というのは、例えば、非常にすぐれた古典から、ミレーの「落穂拾い」とか、レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」とかピカソの何とかというものを、生徒に、いくつか選ばせて、非常に詳細にコピー、模写することを、極端にいえばどちらが原画か分からないというほど見事に模写することをテーマにした課題があるんだそうです。そういうことができなければ、極端にいえばオリジナリティーのあるものなど自在に描いたり造ったりできることはできないんだと思うのです。創造性のある作業の背景には、模写とか、模倣とか、コピーというものがまずあるわけです。先人の築いてきたものを学ぶということです。

自閉症の子どもは、実は最も創造力、創造性がないのです。ですから非常に単調な生活のくり返ししかできないのです。残念ながらあの子たちは、習慣や日課になったことしかできないとか、その習慣や日課じゃないことをやると非常に脅えるし、不安を感じます。自閉症の基本的な障害の一つに、模倣ができないということがあります。その模倣ができないということは、実は、創造性がないということです。模倣から始まるということはとても大事なことです。ということは、科学的なものに限らず創造的な活動は、まず先人に学ぶということが必要でしょう。先人に学ぶのは模倣なわけです。

傍観者の若者は、先人の業績を引き継がない

現代の若者たちはよく、モラトリアムと言われるでしょう。小此木啓吾先生たちもおっしゃっていますように、モラトリアムの本質の最も中核的な問題の一つに、当事者にならないとか、傍観者であろうとするということがありますけど同時に、先人の業績を引き継ごうとしない、あるいは伝統を受け継ごうとしない、極端な言い方をすると、いきなり自分から新しいことをスタートしようとしているように見える。結局私は、ニューミュージックだとか何とか言ったって、本当のところ過去の歴史の上につくられたものでない音楽は、後世に残るような創造的なものにはならないだろうと思いますし、なりにくいと思います。伝統を引き継がないで、新しいものを作っていくということは、本当には無くて、刹那的なものに終るだろうと思うのですけどね。流行歌は、それでいいかもしれません。その時、流行ればいいわけですが。しかし流行歌だって後世に残るもの、懐かしのメロディーになるものはそれだけの歴史的な意味をもっているものでしょう。ともかく、創造性は、そのようにその先人の業績を受け継ぐことです。それから自主性のある新しい創造となっていくわけです。

依存するから自立する。依存は模倣である

前の人のことを受け継ぐという場合に、前の人を尊敬するということがまずなければならないわけです。共感というのと同じことですね。尊敬の感覚は、実は競争の原理の中だけで育てられたのではできない。優越感、劣等感の感情の中ではできないものです。ですから、こういう一連の人間の非常に重要な感情、感性という、ひと続きのものがあって、その中で育てられた子どもは、尊敬と感謝の感性があるから、まねようとし、模倣しようとします。模倣が十分できて、初めて創造性が出るのです。要するに、依存するから自立するんで、その依存は、言ってみれば模倣で、依存から自立へという子どもの発達のプロセスでもそういうものがあるわけです。創造性をもって生きるというのは、共感、尊重、尊敬あるいは感謝というような人間として大切な感情や感性と関連している、という意味で大事なことだと思います。

それで、模倣するということですが、相手を信じるから模倣できることにもなるわけです。相手を信じるというのは、そういう意味では、十分な依存体験をしておかなければならない感性です。ですから、いい親や先生に恵まれることは大事なわけです。先生を信じられるから創造的な学習ができる、あるいは、親子関係でいえば、自分の欲求をよく受け入れてくれた親を信じることができるということが基本にあって、初めて自立していくわけです。

まねた上に自主性・主体性をもつから創造性をつくれる

その創造性には、必ず自主性とか、主体性とかが必要になってくるわけですから、それらが損なわれないでいなければなりません。自主性や主体性を損なわないでいられるという前提がなければ、実は創造性は出てこないんです。実際には、自主性のない人には模倣性もでてこないんです。では自主性は、どうして育てるかといえば、自分に自信があってこそ育つんです。その自信はどうして育つかといいますと、自分の欲求が、自立する前の幼い時、あるいは精神機能が未分化の時に、どれだけ周囲の人によって満たされるかで、大きく左右されるのです。子どもは十分な依存体験をすると、自信をもち、自分の存在に誇りを抱いて、そして仲間や、すぐれた人に対して、共感や、感謝の感情を感じやすくなり、安心して人を尊敬できますから、これは、と思うものを、まねることができるのです。まねることができた上に、自主性や主体性をもっているから、創造性を培っていくことができるのです。そしてできあがったものに対して、思いあがった優越感でなく健全な誇りを持つ。こういうふうにいくんですよね。

子どもが育つというその基盤は、あくまでその子どもの中に、人を信じる力を育てることなのです。人を信じる力というのは、感謝や尊敬の感情にそのまま直結するものでしょう。そのことが創造性につながっていくという、このプロセスを分かってもらえると、子どもを育てることは非常に楽しくなると思います。子どもは、みな天才というわけではありませんが、その子の持っている力は、しっかり出てきます。どのくらい十分に依存させてあげるか、これが、創造的な生き方にずっとつながっていくのです。感性を育てるということだって、自主性のない人に豊かな感性はあり得ない。人からものを学べない人に、まねることができない人に、創造性はあり得ないですね。こういうプロセスを知ると、育児は非常に面白いですよ」。