依存と反抗

 

 佐々木正美

遊ぶ子どもたち依存と反抗そして自立

  親であれば子どもの自立を願わない者はおりません。「這 (は)えば立て、立てば歩めの親心」という昔からの言葉にあるように、わが子の成長を願って育てます。この過程で親の愛情に嘘はなく、この言葉には子を思う気持ちがあふれています。社会性を、独立心を、自立をと望む親の思いを整理しながら 今回のテーマについて考えてみたいと思います。

 

お母さんを信頼する心からはじまる依存体験

 子どもの心の発達について、エリクソン(精神分析家)は「子どもは十分な依存を経験し、反抗をくり返しながら自立へのスタートをきる」という意味のことを言っていますし、ゲゼル(小児科医師)は「子どもはらせん階段を駆けあがるように発達し、成熟していく」と言っています。これは子どもの成長のある一面が見えると思うと、ある時期はそれが裏側にかくれる、そしてまた同じ面が見えてくる、というように依存も反抗も出たり引っ込んだりしながら発達していくというのです。だから一見同じように思えることも次に見えた時には、それは前とちがった高い機能水準になっているというのです。そしてとりわけ重要なのは、依存と反抗をくり返しながら、子どもが自立していくという考え方です。

 このことをもう少し詳しく説明しますと、子どもの中に依存が見える、それが半回転すると反抗がやってきます。依存は向う側にひっこんでいるんですね。そしてまたくるっとひっくり返ると反抗期が終って依存期になっている。けれどもこれは前のレベルより程度の高い能力を準備するための依存になり、前の反抗よりは機能レベルの高い反抗になっているのです。現象的にはただ依存と反抗だけの生活態度に見えますが、これがくり返されながら目立のための人格の質を高めていくということになるのです。

 こういうものだとわかっていると、子どもが依存してきて「ああして欲しい。こうして欲しい。」と言って頼りきっているように見えても、親は「ああ、これは前より大人っぽくなったな」とか、「生意気になってきたな」と裏づけがはっきりしている依存体験ですから安心していられるわけです。また反抗にしても「おお、やってる、やってる。随分大人びてきたな。」と子どもたらが親から、家庭から巣立って自立していくプロセスが見えて楽しみでもあります。甘えと口答えのようなことが、子どもが成長する過程でとても大事なのです。

 依存というのは一口に言って、人を信頼するということです。相手に信頼感がなければ依存しません。相手に寄り掛かかるわけですからね。そしてこの初めての相手がお母さんということになります。子どもの発達というのは、お母さんを信頼するところから、自分に自信が生まれるのです。とても面白いと思うのは、子ども自身、自分がとても親から受け入れられている、愛されているという体験をした時にはじめて、自分というものの存在を感じるのです。

 子どもだけでなく、大人もそうですね。会社から受容され、取り立てられていると感じることが、会社への信頼になり、自分は会社で役に立っていると自信を感じるのです。親から十分愛されている、親を十分信頼できるということから子どもは親に依存していくわけです。そして子どもは自分の存在を信じることになり、自立へ向かって進んでいくことができるのです。相手を信じることなくして、自分を信じることはできないというのはこういうことです。乳幼児期、学童期を通じてお母さんに対する基本的な信頼感を確立しないで育った子どもは、社会的な自立が難しくなるといった指摘もあります。一般にお父さんに対する信頼感は、価値観、倫理観、道徳観といった人生観のようなものと関連しますから、年齢的にもう少し大きくなってからといえましょう。

 

愛されないと自暴自棄になる

 人は無人島で雨露がしのげて、生活に困らないという時に平気でいられるかと言いますと、とっても不安なのです。おそらく発狂して、生きられない人もいるでしよう。なぜかというと人間は自分を包んでくれる人、自分を受け入れてくれる人の存在があって、はじめて自分を自覚できるのです。あるいはそういう人と共存しあって、自分を磨こうとか、輝きを増そうとかいう気持ちになるのです。人は人を愛し、人に愛されて安定した存在になるのです。愛され受け入れられることがないとしだいに自暴自棄になり、自立した人格を育てることができないわけです。

 子どももいろいろな人から愛されることが必要なわけです。お父さん、お母さんはもちろんですが、友達から愛され、近所の人から愛され、先生から愛され、歓迎される、こういう子どもが自信をもって目立していくわけです。多くの人に愛されると人間は傲慢になるのではなくて、愛されるから相手を信頼するし、信頼するから相手を愛し相手に依存するし、そして子どもは自分を信じることができて目立していくのです。自立とは自分を信じる前に、人から愛されることから始まるといえます。

 お母さん達はどうも子ども達を十分に依存させてあげるということの意味が飲み込めないようですね。子どもの言うことばかりを聞いてあげていいのですかと言う人もいますが、子どもを本当にしっかりと自立させている親というのは、子どもをゆったり、存分に受け入れているのです。基本的には無条件に受け入れるのです。そのあとで、「おまえ、こうするといいよ。ああいうことができるといいねえ。」と言うのがいいのです。無条件に受け入れてあげないで「ああしろ、こうしろ。」と言うから子どもはできなくなるのです。自信はもてないし、相手を信頼することもできない。信頼できない人の言うことは聞けないのです。教育でも政治でも信頼が失われた時は、強権発動とか、恐怖政治とか独裁政治とかになるのです。力でするわけですね。親が子どもを育てる時も、教師が生徒を指導する時も、同じようなことがあり得るわけです。依存と自立はこの信頼の上に成り立つのです。

 

依存から反抗へのプロセス

 反抗も基本的には依存と同じことです。ちょっとニュアンスが違いますが、子どもが一人で相手に向かって反抗する時は、相手に対して並々ならぬ信頼感があるのです。そうでなければ反抗はできないのです。子どもが親に反抗するのは信頼感の上に立っています。ところが集団で誰かに反抗するというような場合は、相手に対する不信感が基盤にあることが多いようです。生徒が集団で教師に反抗するのは、教師に対する不信感のかたまりといえます。もし生徒が一人で先生に向かって「先生、僕はこう思います」と言えるのは、信頼感のうえでするのです。一人でする反抗と集団でするのとでは質が全く違うのです。子どもが親に向かって理の通らぬことを言うのは、親に対する信頼感があるからです。信頼感のない反抗というのは処罰を恐れて集団で徒党を組んでするわけです。これは相手に対する不信感の表明です。子どもが何かに向かって自己主張する場合、信頼感があれば一人で反抗するし、不信感が大きいと集団でするのです。ですから普通子どもが親に反抗したり、先生に反抗しても一人でしていれば安心していいのです。このことを理解しないで、どれもこれも一緒に考えてはいけないと思います。

 

依存と依頼の違い

 お母さん達は依頼心をつけてはいけないとか、依頼心が強くて困りますとかよく言います。依存と依頼との違いを言いますと、依頼心というのは、自立心がないことを言うのです。依存とは全く別のものです。一見、紙一重にみえて、誤解するものです。十分な依存体験がなければ自立しないわけです。目立しない子どもを依頼心の強い子どもというのです。ですから反抗できない子どもは依頼心の強い子どもになります。自信のない子も依頼心が強いですね。自信がないから初めてすることなど、のびのびとできないのですね。依存と依頼の見きわめ方がよく分かるのは、じっくり、ゆっくり子どもを見ていれば分かります。自立のプロセスをしっかり歩んでいない子どもは依頼心が強いのです。依頼心が強いというのは依存体験の不足した子どもということになります。依存というのは子どもが望むことを望む通りにしてもらうことをいいます。依頼心も依存も子どもが「ああして欲しい、こうして欲しい」というのですから言葉で言い表わすのは難しいのですが、依頼心というのは、自立のプロセスをちゃんと歩んでいない子どもの希望であり、願望です。依存は相手に対する信頼感の豊かな期待です。依存しているという場合は、あることが充たされると次々に発展的な要求が出てくるのでよく分かります。決して同じことをいつまでも望みはしません。依頼心の強い子どもは、目立のプロセスを歩んでいないので同じことを何ヶ目も、何年も望んできます。依存と反抗をくり返す目立のためのプロセスは、ぐるぐるめぐり合って、どんどんらせん階段を上っていくように進んでゆきますから、こんなに甘ったれと思っていたら、ある日スッと消えてしまうのです。生意気だなと思っているとまた甘えてみたりと様子が変わります。同じことをいつまでも相手に対して期待しないのです。こうしながら次の段階に成長します。

 同じことばかりを頼んでくるのは依存体験ができていないと考えます。停滞していますのでいつまでも頼ってきます。依頼心の強い子どもの方が反抗も少ないのです。これは大事なことです。反抗期がなくては、目立に向かわないので気をつけなければいけません。子どもによって満足度というのは違います。十分に依存させないと安心して自立していかない子どもと、ちょっとしてあげるだけで充たされ、自立していく子どもといます。どの子にも同じだけ手をかければよいというのではありませんね。その子その子の要求にしたがってやってあげるのがよいのです。沢山要求してくる子どもには沢山してあげればいいですし、それほど要求してこないのに、追いかけていって無理に手をかけてあげる必要はありません。個人差に合わせてしてあげることです。要するに親、保母、先生の育児プランが先にありすぎると子どもは自立しないのです。反抗も相手に信頼を寄せていればこそできるのです。反抗は、自立への積極的な試みであり、依存は、自立するために必要な基盤ということです。

 

自立に向かうための試み

 子どもの反抗の仕方をもう少しお話しますと、「お母さんはそう言うけれど、僕はこう思うんだ」という内容ですから、多くの場合、子どもの言い分の方が正しくありません。一般社会では理が通らないことがらです。しかし自立への練習なのですから、社会では通用しないことですが、「僕はこう感じるんだ」「ああしたいんだ」とトレーニングしているわけで、誰が見ても立派なことや価直観の高いことを言っているのではないのですが、親は「ああ、そうかい」と聞いてくれる。これが大事なことです。自分が言ったことが、受け入れられるか、受け入れられないかを親を相手に練習しているのです。それが反抗です。そして親の反応を確かめながら、「これはよそでは通らない」とか、「親だから通るのだな」「ここは我慢しなくては」というように手加減を練習していくのです。親だから練習できるので、他人ではなかなか練習させてくれません。依存体験の不足している子どもは、親に反抗ができないのです。親への不信感で反抗する時は、腕力が親子で逆転した時、すなわち思春期以降に心理的にも肉体的にも親が立ち直れないほど重傷を負わせるような反抗にでたり、逆襲を受けないように、集団で他人や社会に反抗するのです。

 「お父さん、僕はこう思う」「お母さん、わたしはこうしたいんだ」と言えるのは、親を安心して信頼しているからできるのです。親に反抗できないと、仕返しを恐れないですむ所、例えば学校へ行って集団で器物を破損したり、教師に歯向かったり、弱い子をいじめたりするのです。仕返しを被らない防御を考えた反抗は不信感が根底にあるからです。直接仲間の子どもをいじめているのは、育ててくれた親や教育者に対する不信感なのです。親を信頼している子どもは、いじめのグループには入りません。1人でする親への反抗は、とても健康で健全なことだと思います。集団の反抗は未成熟のままでの行動です。

 反抗する子は悪い子と思うお母さんがいますが、幼児期から思春期にかけて、子どもが1人で親に反抗してくる時があったら「この子は私をこんなに信頼してくれているんだ」と思ってあげて下さい。自立に向かう大事な道すじなのです。「それは親に言う言葉ではありません」と腹を立てるのはいかがなものでしょうか。

 

家庭・教育・地域の三位一体

 昔の親が子どもの反抗を十分許容したかというと、そうとばかりは言えません。子ども達は仲間同志で相互に依存しあって、ある程度の問題は解決していたのです。あの時代の親のミスは、子ども同志の遊びの中で解消されましたが、今は子どもの遊びの場がなくて、親のミスはそのまま子どものミスになってしまうのです。子育ては親だけでなく、地域社会の中でという、その地域の場がすぽっと抜け落ちているため、子どもが育ちにくくなってもいるのです。この抜け落ちた部分を、今日の学校では教師が全面的に受け負わなければならないのですから大変です。教育がそんなに悪いわけではありません。非常に勉強している先生方が多いですね。近所のおじさんに叱られたり、受け入れられたり。おじさんの仕事を手伝ってほめられたり、仲間と陣とりゲームをしたりしたことなどがすっぽり抜けています。今は親と教師がすべてやらなくてはいけないのです。仲間に依存したり、されたりする体験や場がなくて、親と先生だけというのは正常ではありません。本当の自立とは人に依存し、人から依存される相互関係のなかで達成されるものなのです。学校に安心して行ける子どもは、クラス仲間の中で依存し、依存されている調和のいい子なのです。勉強がよくでき、1人で何でもやれるけど友達とはうまく関われないといった子は、自立へのプロセスをうまく歩んでいるとはいえません。「宿題を教えてよ」「サッカー蹴るの教えてよ。僕はどうも下手くそだ」「今度、甲虫あげる」などと言い合っている子は相手を信頼しています。クラスメート、教師への信頼感は、親を信頼することからはじまるのです。

 

お母さんも人間関係を楽しく

 子どもに人と違った、より高い個人的な知識や技術を身につけさせてやることが自立につながると思っている人が多いようです。自信をつけてやりたいという親心でしょうが、それだけでは目立には向かいません。むしろ、まわり道をする方が自立につながると思います。例えばハイハイをたっぷりとした子の方が、しっかり歩くのです。ゆっくりトイレットトレーニングをした子の方が、しっかり自律するのです。建築と子育ては同じです。基礎工事のコンクリートがよく乾いてから柱を建てますね。建築の基礎が母子関係などの初期の人間関係の時期と考えて下さい。一方的な依存から反抗へ、そして相互依存を通じて、人と人がひびき合って目立していくのです。子どもが自信を持つというのは高い能力を認められるのではなく、存在を許容されるからです。そしてお母さんがゆったりと子どもを受容してあげるために、お母さん自身が仲間と心から交わらなければ育児というのは難しくなってしまいます。夫婦のコミュニケーションを基本にしながら、育児グループや近隣、PTAの仲間、学生時代の友人、自分の兄弟姉妹、職場の同僚等と相互に依存し、依存される人間関係が望ましいのです。

 

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