佐々木正美先生に聞く   インタビューシリーズ1 夫婦と家族の絆

 -夫婦とはどうあるべきか考えてみたいと思いますが…。

 

 夫婦というのは、なぜ男女が一緒に住むかということです。一般的に夫婦というのは同居しあう、ということですね。恋愛とは違うわけでしょう。友情とも違うわけです。それは基本的には非常に深く相互に依存しあうことだと思うんです。夫婦というのは、深く相互に依存しあうことができるという意味で、単なる愛情以上の、愛情を含めながらそれを超えた状態で、互いに自分も相手も大切にしあいながら存在するものだと思うんですね。

 私は基本的には、人は孤独とか孤立したままでは決して健康には生きられないと思っています。だからたいていの人は一緒に住んで、自分と相手を大切にしあって安らいでいたいのです。

 

夫婦は十分に相互依存し合える相手

 

 人は友人とか知人とか、いろんな程度に相互に依存しあって健康でいるんですけれども、それで足りるという人もいるでしょう。ところが多くの人の場合は、友人や知人との相互依存関係だけではまだ不十分だというふうに、思うのですね。より深く、日常的に十分に相互依存しあえる相手を求める。それが夫婦だろうと私は思っています。相互に依存しあうというのはとても大事であって、依存しあうという部分には精神的な依存もあるでしょうし、物理的な依存もあるでしょう。その両方を適度にいろんな形でというのがあると思うんですね。

 ですから夫婦はいろんな形がおそらくあるだろうと思うんです。非常に極端な場合を言えばサルトルとボーボワールのように必要な時だけ会って、あとは精神的な依存関係で距離をおいていられる。そのことがお互いの創作作業とかが上手くいく、という夫婦もあるのですね。精神的に深い相互依存がある。必要な時に出会う。必要な時に一緒に生活しあう。それでまた必要な時に仕事をするために、少し別かれている。これは本当に信頼感がお互いにあり、相互依存があるといえます。こういった依存の仕方もあります。いろいろあっていいと思いますよ。

 

夫婦のあり方は十組十色、百組百色

 

 いいと思いますけども、相互の依存関係、お互いか相手に、自分がこういうところを依存する。相手もこういうところでこちらに依存しているという、いい意味での、相互が必要としあっている依存関係が崩れた時には夫婦関係というのは崩れるだろうと思いますね。相手が依存するに足るというところが大事であり、自分がまた相手の依存に応えられるということがあって夫婦は上手くいくんだろうと思うんです。だからどんなふうに依存しあうか、精神的なもの、身体的なもの、物理的なものなどどういった依存の中身により、夫婦の形は十組十色、百組百色だろうと思うんです。だけど、健康な夫婦、うまくいっている夫婦というのは深い相互の依存関係が成立していると思います。

 -頼れない夫や妻を持った場合はどうでしょうか。

 

 本当の意味では夫婦ではないだろうと思います。友人でもないでしょう。友人だって、いい友人というのは相互依存ですよ。生活の全てを、相互に種々の形や程度で請け負いながら相互に依存しあうというのが夫婦ですからね。

 

 -家庭というのは何のためにあるのでしょうか。

 家庭は子どもがどう生きるか練習する場

 家庭を構成するのが家族メンバーとなるわけですね。家庭というのは何のためにあるのかというと、これは、一つは安らぎ、くつろぎの場です。人が外では見せられない弱点や欠点を安心して見せることができる場。お互いに援助や協力をし合える場。だから、安らぎやくつろぎが体験できる場。

 私はもう一つの意味は、人間どう生きるべきなんだろうということを確認しあう場だと思ってるんですね。価値観を共有しあえる場。人間の生き方を模索する場、といいましょうか。ですから、好き勝手なことをやってくつろいでいるだけでは家庭ではなくて、もう一つはどう生きようかということを練習する場だというふうに思います。とりわけ子どもにはそうだと思います。大人だって本当はそうですけどね。

 この二つの事が提供できれば家庭というのは、あるいは家族というのは非常にうまくいくと思うんです。その安らぎの場を提供しあうためには、みんなが安らぎの場を得るためには、それぞれに役割があるんです。その役割は誰がどうしなくてはならないという決まったものではありません。けれども、いろんな個性や経験や魅力を持ちあわせた人たちが、先の家族機能を維持するために、自然に、それぞれが役割を分担しあうようになると思いますね。よい家族というのは、その役割の果たしあいがうまくいくのですね。そのためのリーダーシップは、誰かが取ることになると思いますが……。

 

 乳幼児期にやり忘れたことは何歳になってもやり直す

 

 人に対する信頼感と自分に対する誇りや自信みたいな感性は当然早いうちに育まれた方がいいに決まっているわけですね。だけど、人間というのは何歳になってからでも必要なものはいろんな程度にやり直しも学習もできると思います。育児の乳幼児期にしておかなければならなかったことが不十分で、学童期とか思春期にやり直しをしなければならないとしたら、そうすることが大切で、その成果は、個人差はありますが、またやり方にもよりますが、私は、やり直しは可能だろうと思っています。その時の原則は、乳幼児期にやり忘れたことは何歳になっている人にも乳幼児期のようにやることだと思っているんです。絶対的な、十分な依存経験が足りなければ、学童期になってからでも思春期になってからでもしなければならないということだと思いますよ。それは例えば時々不登校の子どもにもそういうことがありますね。

 

 拒食症の若者にもそういうことがあります。ボーダーラインパーソナリティーといわれる青年の場合にも、少し大げさな言い方をすると、乳幼児期からやり直さなくちゃならないというものがあります。そして、そうすることによって、どれくらい完全なやり直しがきくかどうかは別として、やはりやり直しが可能だと思っているんです。だけど、自分の臨床経験からすれば、年齢が大きくなっていれば、それだけ不十分なことがあるのは事実ですけれどね。ところがこちらがそういう意図を持たなくても子ども自身が、あるいは青年自身が自分でやり直しをしようとすることがありますよ。

 

 私の例ではT医大病院でみていた子で、小学校四年の時に本当に赤ちゃんのような声で「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣く男の子がいましたよ。そして緘黙(カンモク)の子どもでしたが、婦長さんに向かって「婦長さんのお腹に入りたい」とそれが最初に発した言葉でした。そういう例もあるわけです。まるで胎生期からのやり直しですよ。本当に赤ちゃんの声とほとんど区別つかない。どうしてあんな見事な声が練習もしないででるかと思うほど見事に赤ちゃんの声で泣きました。この子は後になって、入学偏差値が最も高い国立大学に入りました。

 これはT医大病院でも今だに語りぐさですけどね。こういうケースは今までに私は三人知っているんです。このようにひどい場合には自分でやり直しをしてしまいます。

 

 幼児期のやり直しは自立へのスタートを切ること

 

 不登校や学習障害など、いろんな子どもたちのためのフリースクールなんか訪問してみますと、原則としては、小学校の三年になっても五年になっても、あるいは中学生になっても、幼児期の遊びのようなフリーな時間をのびのび与えてあげようとすることを、結果としてやっていることが多いですよね。フリースクールに来ている子どもたちを見ていると、結果としては、そういうことを自分がやり直しをしようとしている。周りの人はそれを応援しているということになっていることが多いですよね。テレビで報道される映像をみていると、中学生になったって私たちが昔、子どもだった頃、あるいは小学校のごく低学年の生活行動や遊びを仲間と一緒に楽しんでいる、そういう映像が多いですね。それはそうすることで、やり残したことのいわばやり直しをしているわけです。

 そしてその後になって、本格的な自立へのスタートをきっていくんだろうと私は思いますね。だから私は、いろんな程度に育児のやり直しは可能だし、そうしなければならないのだというふうに思います。

無断転用、引用をお断りします。

copyright  佐々木正美


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