「生き生きした子ども」それは親の願いであり教師の願いでもあります。

 ところが子どもたちは、親の想像をはるかに超えた状況の中で様々なストレスにさらされて生きています。友人や先輩、下級生との関係、ハードスケジュール、容姿や学力などのコンプレックス、家庭内の問題などのストレスがあります。自覚の程度はさまざまであっても不安やおそれを感じていることが多いのです。

 また両親の夫婦喧嘩や離婚、小中学校での不快な体験、いじめや暴力行為などの被(加)害者などの体験から子どもの心に深い影を落とし、傷あとを残していく場合も少なくありません。

 学校の一例を紹介しましょう。中学の英語の授業で生徒が順に教科書を読んでいくときに、「私は読むのをとばされた」という生徒がいます。スラスラと読めないため、授業が進まなくなるのです。挫折感は大きく、人間的な尊厳をも侵されて来たといえるでしょう。さまざまな生い立ちのなかで、学校や人への不信感、さらに自己不信と無力感にとらわれている生徒がいるのです。

 U君は、自分の信条として「人を信じない。誰でも疑ってかかる」とはっきり言います。これまで何があったのでしょうか。裏切られ、自尊心を傷つけられた経験が多かったのでしょう。とても残念ですが、彼のように基本的に人への信頼感がすくない生徒が多いように感じられます。こうした生徒の話は、表現がとても未熟で自分でもよくわからない場合もあるうえ、逸脱する行動をした場合には彼らの真意や論理にそって聞かなければなりません。

 暴力事件を起こした生徒が「あいつは、生意気だから殴った」とすれば、何に対して生意気と感じたのか、その言葉のはしはしに、生徒の抑圧された物の見方や感じ方、葛藤を見ることができます。

 中には、自分の気持ちを表現する言葉を持っていなくて、気持ちを伝えるには、相手を脅すような行為しかとれない生徒もいました。相手が、自分にへつらうようになって、自分の存在を維持できる子どももいました。このような生徒の表現方法は、腕力であり体力であることが多いのです。自分が持っている言葉も態度も、暴力を補助するためのものでしかないことがあります。

 暴力が、憎しみや怒りを増幅するというようには考えません。自分の思うところが伝われば、それでよい。そのような考えを持つようになった背景には、「暴力を肯定する家族」の場合があります。このようなときには、父親の暴力をやめてもらう協力が必要になります。また教師から殴られてきた場合もあります。学校、教師の指導の反映ということもあるのです。

 暴力事件では、殴っているほうが一方的に攻撃ばかりしていて、殴られているほうはひたすら防御している。このように見えることがあります。ところが攻撃を受けていると最も強く感じているのは、実は殴っている方だったということがあるのです。外聞も恥もすてて、殴らなければならないほど、攻撃を受けていたということもあります。

 また、生徒が大人に対して自分の行為を弁護するために、極端に攻撃的になるときがあります。こころに秘めた深い孤独感や悲哀感の感情を悟られないように防衛しようとしている場合があるのです。ですから、大人への強がり、怒りなどとして表現されるため、ツッパリの理由がよくわからないこともあります。

 物事をとらえるときに、表面的な事実から子どもを見て、叱責、怒鳴り、指示、命令するばかりでは子どもから発するSOSを見失ってしまうことがあります。私たちは、子どもの発する「言葉や生活行動にかくれたもの」は何なのか、彼らの行動が意味するものの背景にどんな意味があるかを考えていく必要があるように思えます。

 思春期の子どもたちは巨大なエネルギーを持っています。うっかりすると、親も教師も混乱の中に巻きこまれて、とんでもないことになりかねません。ゆとりをもって対応することが必要です。

 今、大人の私たちに必要なことは、子どもの行動を単純に非難し小言を言うことではなく、子どものこころ深くに秘めているものは何かを感じ取り、子どもに寄り添いながら温かく見守り励ましてあげることではないでしょうか。

 教師や親の押しつけでは、子どものこころは閉ざされてしまいます。問題行動の背景には、学校がかかえる問題、家庭にひそむ悩みなどさまざまです。子どもの問題は「大人にとっての問題」でもあるのです。

 このような理解にたって、少しでも子どもたちに新しい希望や力をもたらすよう、そして子どもの命を守るため何ができるか、取り組まなければならないと考えています。

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