■お父さん、怒鳴ってばかり  −叩き育ての父親

 

 授業への欠席が増え、家庭に連絡をとろうとすると、「家には電話しないで、ねぇ 先生!」という生徒がよくいます。場合によっては、「電話したら、学校やめるからな!」といって顔色を見る生徒もいます。

 幾度となく親から叱責され傷ついている場合の防衛反応としてこのような表現になるのです。

 たんに叱られるのをいやがる場合ならそう心配はないのですが、「親父に殴られるんだよ」という場合には、対応を考えてしまいます。カッとなって、怒鳴り殴りたくなるお父さんも多いのです。親の気持ちは、次のようなものではないでしょうか。

 

「子どもは親の言うことは、これまでまあ何とか聞いてきた。こうしなさいといえば、しぶしぶでもハイと言ってきた。その同じ子どもが、生意気になってことあるごとにつっかかってくる。それでも、こっちは、反抗期だからだなと思って我慢している。こっちが我慢しているものだから、よけいつけあがって・・・。何もできないくせに、へ理屈だけは一人前で・・・まったくだらしなくて、散らかしっぱなしで片づけもできないで・・・怒鳴るなという方が無理ですよ」

 

 結局、親は子どものためと思って、どなり爆発させてしまうわけですね。しかし、爆発し殴ることではいい結果になることはほとんどありません。

斉藤学氏(精神科医)は次のように述べています。「威圧的で、脅迫的な親は子どもをおとなしくはしますが、子どもの心には怒りが渦巻いて消えません。〜 こうした子どもが大人になって筋肉の力を持つようになると、今度は自分が周囲を暴力で押さえつけようとするようになります。〜 ところで、怒りが適当に表現されないでいるとどうなるでしょうか。怒りは欲求が満たされないときの反応だから、怒りの表現を恐れると言うことは、欲求することそれ自体を恐れるということになります。そこから始まるのが、感情の麻痺であり、怒りと共に、喜びの感覚も消えていきます。欲求し、それを満たすという『生きる喜び』そのものがぼんやりとしてきてしまいます。」

 教師や親は、子どもを自分の意のままにしようとすると、よけい反発します。場合によっては、親の顔を見ないですむ深夜の帰宅になったり、無断外泊が多くなったり、これみよがしに逸脱行動に走る場合も見られます。反発しなくとも、陰にこもれば自己否定的になったり、手首を切ったりするような自傷行動に走ることにもなりかねません。

 教師や親は、相手の「心を動かそう」という下心を持ってしまいがちです。けれども、こちらのエネルギーを大きくすれば、それに反発して、より大きな力で返ってくるだけです。

隣の家の子や他のクラスの子は、担任や親にとって不思議なことに「大きな悩み」にはなりません。隣の子を、「よくしよう、何とかしよう」とそれほど思わないからでしょう。教師や親のつらさ、悩みは、生徒や子どもを「私の気持ちと同じようにしたい」と思っていたからではないでしょうか。少なくとも、私の思い方、私の感じ方を否定してもらいたくない、そのように思っていたことに気づくのではないでしょうか。

 大人は、自分が我慢してきたことを、最も身近な子どもに同じように我慢することを強いたりします。歯を食いしばって頑張り、たたき上げて仕事をしてきた場合には、子どもにも歯を食いしばって頑張ることを強いたりします。結局のところ、自分の体験や不自由を子どもに強いてしまうことが多いような気がします。このようなこだわりは、結局自分自身を苦しめ、子どもを苦しめていくことにつながりかねません。

 私たちは、自分の心がどう子どもと向き合っているのか、考えてみる必要があります。もうこの子は「自分で自分の道をあゆみはじめている」と思い、私たち大人は自分自身をよりよくしていこうと思っていくのが最良ではないでしょうか。

 かといって、「見放す」「勝手にしろ」ではありません。「見捨てられ感情」を持った子どもは、挫折に弱く、逸脱する行動からなかなか離脱できません。子どもが高価なものを購入したい、何かしたいと話してきたとき、いろいろ話をして結果的に「まかせる」というのと、けんもほろろに「勝手にしろ」ではずいぶん違います。かまってもらいたい、見放されたくないと、子どもは、さまざまな逸脱行動をしてサインを送ってくる場合が多いのです。見放すのではなく「見守る」、困ったときには、差し出す「手」があることを伝えることに意味があるのです。

 河合隼雄氏は見守るということを「その人にできるだけの自由を許し、常に期待を失わずに傍らにい続けることだといえるだろう。〜 一般にいって、援助を必要とする人は、期待がもちにくかったり、自由を許したくないと感じられるような人である。それに対して、期待を失わず、自由を許すことこそ意味があるのである」と述べています。

 「お母さん、長い目で、見守りましょう」私がよく話す言葉です。すると「先生、あの子は、好き勝手なことばっかりやってますよ」と半ばあきらめ顔にこう言うお母さんがいます。外泊などの自由奔放な行動ばかりやっていると親の目は映るのです。けれども大事なのは、内面の自由があるかどうかです。内面はいつも叱責、監視されていると感じていて、不自由なのではないでしょうか。十分依存し信頼されることによって、内面の自由が生まれます。こころから依存し自由になると、外面の自由は落ち着くように思えるのです。 また「心のぬくもりを子どもに与える」点では、外泊したり深夜徘徊するグループの仲間たちに、残念ながら私たち大人は負けているのではないでしょうか。子どもが安心して帰れる家庭、くつろげる家庭の雰囲気づくりに、心配りをしていきたいものです。

 ところで、子どもと日常接する機会の多いのは主に母親です。仮に父親が子どもとかかわろうとしても、未熟さを指摘したり、禁止事項を言うなり、命令口調の態度をとりやすいものです。子どもを静かに何とか押さえつけるのが父親の役目と思いがちですが、押さえつけるのは自分の「叩き育てをしようとする心」にして、子どもの言い分を聞いてあげて欲しいものです。

 また、子どもが問題を起こすと、夫婦の関係はどうしても悪くなりがちです。お母さんは、自分の子育てが悪かったのではと自責の念でいっぱいの場合が少なくありません。また自己中心的なお父さんの場合もあります。夫は、家族のことで波風が立つようでしたら、夫婦仲のよさをさりげなく言葉なり、行動で伝えてもらいたいものです。父親の大きな役割は、母親をささえることです。お母さんが、条件なく子どもを見守れる、信頼できるためには、お父さんが、お母さんを大きくささえてあげることが必要です。

 父親が母親をいたわる姿は、子どもの情緒を安定させます。夫婦の絆を子どもは注意深く見ているものです。夫婦で語り合い、子どものために協力をしていただきたいものです。

 

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