子育てはありがとう
■乾いた家庭


 私の家には早産で出生後にすぐに亡くなった次女の小さな位牌があります。命日になると、今頃は小学校と思い、中学生の頃は何をしていただろうと思い入るのです。子どもを育てることは手がかかることが多いのですが、命があるということだけでありがとうという気持ちになり、たえようもない喜びを与えてくれるものだと思います。


 さて、思春期相談を受け不登校などの家庭を訪問すると、どこか潤いが少ない感じを受けることが少なくありません。靴箱の扉が壊れていたり、壁や冷蔵庫は所々凹んでいたりします。子どもの暴力の結果ですが、そういう破損から受ける印象ではなくて、父母の疲れが家庭の雰囲気に出ているのだろうと私は感じています。そのような時、私は小さな花を持っていくことがあります。それだけで雰囲気が変わることがあるからです。


 子どもが小さい頃、立ち止まって「パンジーが綺麗だね」などと話しかけることがあります。花が綺麗だねというのは、花が与えてくれる喜びに感謝、花にありがとうという気持ちです。「テントウムシがいるよ、飛んでいったね。」これは命への感謝の言葉です。そのような声かけが、子どもに生きていくことへ感謝するという種を蒔いていくのだろうと思います。


 同様に、「今日はすがすがしい天気だね」「今日の雨で、葉っぱさん喜んでいるよ」通り抜ける風に「気持ちいいそよ風だね」。行き交う人に「こんにちは」。そのような一言も感謝の言葉ですね。自分の気持ちや感情を、感謝の言葉で表現する。そのことの繰り返しで子どもに感情の種が育つのだろうと思います。


 子どもが大きくなるとそのような心の動きがなくなり、「あれはパンジーね」と目で見て名前を確認したら気持ちは別の所にあるということがあります。意識はしても五感が働いていませんから、色のあでやかさ、香りや花びらが醸し出す風情に心寄せられないのです。すると心の動きも乾いて感謝の心も薄れているのです。


 視たり聴いたり触わったりする五感のはたらきは、実は心とつながっているのです。家庭訪問ではこのような乾いた感じを受けるのです。



■ありがとう と言えますか


 思春期になると子どもの攻撃的な表現に困惑し、時にはうろたえてしまうこともあります。不登校児の親は、他の子どもはどうして毎日学校に行くのだろうと不思議に思い、非行児の親は、他の子はどうして夜出歩かないで家にいるのだろうと思います。そのような時、私は、「ありがとうと一日何回言えますか」と問いかけると、お母さんは最初、一様に困った顔をされます。親に迷惑ばかりかけ心配ばかりして苦しいのに、どうしてありがとうなんですかという心境です。実は子どもが家にいる、当たり前のようであるそのことから感謝なのだろうと思うのです。

 
 暴走族でほとんど夜いなかった子のお母さんは、夜陰に響く救急車の音にわが子ではないかといつも怯えていました。子どもの先輩が事故で亡くなっていたからです。私が「あれこれ悩む前に、まず命があって帰ってきてくれたことに感謝することではありませんか」との後、はっと気づいたのでしょう。子どもの帰宅ごとに「ありがとう」と言い続けました。はじめ子どもは「馬鹿じゃないか!」と言っていたのですが、遊び歩いても母は何も言わず、帰宅時に帰ってきてくれてありがとうという言葉に感じたのでしょう。しばらくして立ち直っていきました。


 花々等は生活を彩ってくれます。綺麗な花や絵が心を癒し和ましてくれる思いがちですが、私は美しさにありがとうという感謝の気持ちが、心を癒してくれるのだろうと思っています。感謝の気持ちと五感が働いていると、家庭の中は生き生きしてきます。そして反抗的な思春期のお子さんにも、"いてくれてありがとう"と命あることに心から感謝していただきたいと思っているのです。
 高橋健雄

高橋健雄

 

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